石井 修三(いしい しゅうぞう、文政12年(1829年) - 安政4年9月29日(1857年11月15日))は、幕末期の幕臣、蘭学者、長崎海軍伝習所第一期伝習生。諱、信恕。幼名・江川修三、別名・習斉、周斉、周蔵など。写真、肖像画等は一切残っていない。 父石井右仲は韮山代官所出仕の漢方医であったが修三が幼少時に亡くなる。 韮山代官所家臣塾にて教育を受ける。代官所出仕につき父子共石井姓を名乗る。 日習堂名簿 習斉 この頃より諱 信恕 信は坪井信道 恕は江川坦庵。矢田部郷雲、中浜万次郎、鈴藤勇次郎等と共に過す。当時、中浜万次郎とともに英和辞典の作成を目指すが未完に終わる。もし、この英和辞書が完成していたら日本最初の英和辞書となっていた。台場築城に参画。韮山代官所手代、幕府大小砲習練所御鉄砲方付手代教授方。 江戸築地軍艦操練所 教授方に任官戒名 求法院欣入日淨信士。 没後は徳川幕府世襲の伊豆韮山代官江川家一族の眠る菩提寺本立寺に墓石あり、先祖は江川一族と考えられる。基本教練における「気を付け」「休め」「廻れ右」「前へ進め」「全体 止まれ」「右へ倣え」等の号令言葉は石井の翻訳語であり、軍艦操練所で創作された「ヨーソロー」等の船舶号令も多くは石井の翻訳号令に基いている(勝海舟陸軍史) 軍楽隊調連についての記述、 長崎海軍伝習所では太鼓を用いて海兵隊の軍楽隊調連を指導している。(第1編 生兵教練)これらは後の官軍行進曲、及び農兵節の源流となっている。 韮山代官江川家では家臣の子弟を幼年期から代官所に出仕させ国学剣術等の基礎教育や狩猟に同行し銃操調連を実施している。 石井修三は歌詠みの環境に育ち、蘭学のみならず漢詩にもすぐれた能力を発揮している。お殿様(江川坦庵公)から江戸へ蘭学留学が告げられた日の心境〈修三19歳〉遊禽無宿樹 豈図蒙恵風 西戎入寇日 粉骨報微功 習齊 拝(意味)思いがけず事が成る 飛びめぐる鳥にように 落ち着いて宿る樹もない私に思ってもみなかったこと 南風のように暖かいお殿様の恩恵を受けることを西洋人が日本に攻め来る日には 力の限り努力し 私の僅かな功をもって恩返ししようと思う蘭学研窮廿九秋 何圖忽染采薪憂 即今将向重泉去 罔極親恩幾世酬 石井周齊(意味)蘭学を研究して二十九年、図(はか)ずも病を得てしまった。今この世を去るにあたって親に恩返しは出来なかったけれども、 何時に世にか酬いようと決心している
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。