余市町(よいちちょう)は、北海道後志総合振興局管内にある町。余市郡に属する。北海道の日本海側に突き出た積丹半島の付け根に位置し、余市川下流部を中心として古くから発展してきた町である。北に日本海、東に小樽市と接する。また、南で接する仁木町と赤井川村・西で接する古平町・さらにその西にある積丹町とともに「北後志五町村」と呼ばれ、人口2万人余りの余市町が同地区の過半の人口を占める。江戸時代から大正時代にかけて日本海で隆盛したニシン漁の主要港のひとつであり、明治時代には日本で初めて民間の農家がリンゴの栽培に成功するなど、現在でも漁業と農業(特に果樹農業)がともに盛んな地となっている。ニッカウヰスキーの創業地、民謡ソーラン節発祥の有力地としての顔も持つ。町の中央を北に流れて日本海にそそぐ余市川の下流平野を中心に、その東西の海岸と奥の山地を町域にする。余市川中流平野はほとんど南の仁木町に属しているため、地図に示すと、中央部がくびれていて東西に向かうほど広がっていく、横長の蝶のような形をしている。余市川よりも東側では、川沿いの黒川地区と北方海沿いの大川地区の一部が市街となっており、住宅も多い。また東部はワインブドウやリンゴの果樹農園地帯となっている。札幌 - 小樽 - 余市 - 仁木を通り道南へ向かうJR函館本線と国道5号線が通る。余市川のすぐ西側にはヌッチ川が流れ、下流が伝統的な港町をなし、北海道立中央水産試験場がある。この西に余市町を代表する風光明媚なシリパ岬が突き出ている。さらに西の古平方面へと進むと、険しい断崖が迫り、自然の景勝をなす海岸が多くみられる。このあたりはニセコ積丹小樽海岸国定公園の一部である。日本海に面しているため、冬の積雪量が多い。北海道の中では温暖多雨な気候であり、果樹栽培の適地といえる。町内にはフゴッペ洞窟をはじめとする縄文時代から続縄文時代の遺跡が多く、古くからアイヌの人々が定住する地だったものと思われる。江戸時代初期に松前藩の商場知行制・場所請負制が敷かれると、良港として使用できた現在の余市町域には、和人によるアイヌ交易の拠点として「上ヨイチ場所(運上屋)」「下ヨイチ場所(運上屋)」の二つが置かれた。この「ヨイチ」という地名については、余市川を指すアイヌ語地名「イオチi-ot-i(それ<マムシ>・群棲する・もの(川流域))」を起源とし、アイヌ語地名では二重母音を忌避する性質があることから、アイヌ語では「イヨチi-y-ot-i」と、「y音」を添加したが、後に和人の入り込みに伴い、「イヨチ」が「ヨイチ」へと言い習わされるようになり、それに漢字が充てられて、「余市」という現在の表記になったと考えられる。一説には蛇のように曲がりくねった川とする郷土史家もおり、河口付近は往時は蛇行していたと言われている。また、アイヌ語は文字を持たないので、種々余市の表記過程が、地方郷土史家によって説明されているが、推測の域をでない。アイヌ語は二重母音を嫌うとあるが、この現象は言語学的には多くの言語に共通するところであり、日本語もその範疇に入り、二重母音の長音化や開合音の統一化、母音の欠落、子音の挿入等もあり、一概に決定することは困難であり危険を伴うものであることも、語源学同様注意しなければならない。なお、現存する「旧下ヨイチ運上家」(国の重要文化財及び史跡)は、日本唯一の運上屋遺構である。江戸中期以降は、近海を回遊するニシンの中心的漁場として発展した。しかし漁獲数は明治・大正をピークに減り続けた。農業では前述のように古くから果樹栽培が盛んで、ブドウ(ワイン加工用、生食用ともに)、リンゴ、梨の生産量で道内第1位である。またニシン漁が途絶えてからも漁業はなお盛んで、現在の漁獲物の中心はイカ・エビ・カレイ・タラ・サケなど、また育てる漁業への転換が図られる中で、ヒラメ・サクラマスなどの高級魚の生産も増加している。これには余市港付近に北海道立中央水産試験場が設置されていることが大きくかかわっている。1934年(昭和9年)にニッカウヰスキーが創業した地としても知られ、スコットランドの情緒あふれる余市蒸溜所は今でも伝統的な製造法を守っており、観光名所となっている。創業者の竹鶴政孝は、気候がスコッチウイスキーの王国スコットランドに似ていたことと、ウイスキーの製造に欠かせないピート(泥炭)が入手できたことから、この地を選んだと言われる。一般国道道道道の駅市外局番は0135。仁木町、赤井川村、古平町、積丹町からは市内局番からかけることができる。ただし、市外局番が同じでも岩内MAからは市外局番からかけなければならない。
出典:wikipedia
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