株式会社オハラ()は、1935年(昭和10年)日本で最初に設立された光学ガラス専業メーカー。光学ガラス分野では、世界でも代表的なメーカーとなっている。創業者の小原甚八は海軍造兵廠に勤務し、柴田理八の下で光学ガラスの試作に従事した。その後海軍は光学ガラス製造を日本光学工業(現ニコン)に譲渡したため小原は日本光学工業で光学ガラスの製造に従事するが、1935年(昭和10年)に日本光学工業を退社し、蒲田に個人事業として小原光学硝子製造所を設立した。なお、設立当時にその資金を提供したのが服部時計店(現在のセイコーホールディングス)であった関係で、セイコーは現在も筆頭株主(連結子会社の京橋起業と完全子会社のセイコーインスツルの所有分を合算すると40%強の議決権を所有)となっている。レーダーの性能が飛躍的に向上するまで、情報戦の主役は光学兵器であった。日本の場合、主として海軍に光学兵器を供給していたのが日本光学工業であり、陸軍に供給していたのが東京光学機械(現トプコン)であった。小原光学硝子は東京光学機械が精工舎の測量機部門が独立したものだった関係から東京光学機械の光学ガラス供給源となった。小原光学硝子はその他のメーカーにも光学ガラスを供給していたため、太平洋戦争の全期間を通じガラス生産量は日本光学工業を超えて国内最大となっていた。だが、その需要の大半が軍需産業に依存していたため、終戦によって需要が激減、小原光学硝子の経営は危機に瀕した。その時期に手がけるようになったのが装飾用クリスタル・ガラスで、現在でも製造が続いている。1944年(昭和19年)2月に株式会社に改組し、現在の所在地である神奈川県相模原に工場を新設した。キヤノンはそれまで日本光学工業からレンズの供給を受けていたが、終戦に伴って日本光学工業が大量解雇した従業員の一部を雇用し、小原光学硝子からガラスの供給を受けることで、レンズの自社生産が可能になった。その後キヤノンは小原光学硝子に資本参加し、現在ではセイコーに次ぐ大株主となっている。小原光学硝子の名を上げた製品が、1975年(昭和50年)に生産を開始した低屈折低分散ガラスFK01である。これはいわゆる異常分散ガラスといわれるガラスの走りで、従来の光学ガラスより色収差を軽減できる。発売と同時に、FK01を使ったカメラ用レンズや天体望遠鏡などの新製品が各社から続々と登場した。その後、より改良された異常分散ガラスが小原光学硝子や他社からも供給されるようになったが、FK01は現在でも定番の異常分散ガラスである。製品名は後にS-FPL51と改称されているが、現在でもFK01と呼ばれることが多い。1985年(昭和60年)には、社名を株式会社オハラに変更した。最もオハラ製光学ガラスを使用しているカメラメーカーは、キヤノンと思われるが、量の大小を別にすれば、国内の大半のメーカーが採用していると思われる。ガラス熔解を自社で行っていたメーカーも多少はあったが、富士フイルム(もしくは子会社の旧フジノン、当時の富士写真光機)はすでに中止して時間が経っており、コニカミノルタはカメラから撤退。ニコン(もしくは子会社の光ガラス)ぐらいしか残っていない。もちろん、現代では、資本関係のある素材・部品メーカーを持っていても、必要とあれば別のメーカーからも供給を受ける。キヤノンはHOYAからもガラスの供給を受け、ニコンはオハラからも供給を受けている。同社製ガラスは、いわゆる光学機器以外にも、半導体製造装置(ステッパー)など多くの分野に採用されている。光学ガラスの老舗であるショットを擁するカール・ツァイスにもステッパー用として供給している。ツァイスは自社ではステッパーを製造していないが、オランダASML製ステッパの光学系を担当しているためである。したがって、ステッパーの光学系に使用されるガラスは、大多数が日本製ということになる。また、ハードディスク基板では、日本のメーカーであるHOYA、日本板硝子、オハラの3社で、ほぼ100%を占めていたが、2013年(平成25年)12月に撤退した。同社の「ゼロ膨張ガラス」、「低膨張ガラス」は、世界に3つある超大型望遠鏡計画のうち、30メートル望遠鏡(TMT)、巨大マゼラン望遠鏡(GMT)の2つに採用された。このゼロ膨張ガラスは、長さ1メートルの場合、温度が1度変化しても0.00002ミリ以下しか変化しない
出典:wikipedia
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