マクラーレン・MP4/7A (McLaren MP4/7A) は、マクラーレンが1992年のF1世界選手権に投入したフォーミュラ1カーである。チーフデザイナーのニール・オートレイとエアロダイナミシストのアンリ・デュランが設計した。1992年シーズン第3戦ブラジルGPから最終戦まで実戦投入された。シャーシ名称がMP4/7ではなくMP4/7Aとなったのは、当初より改良型Bスペックシャーシを投入する予定があったからである。マクラーレンはTAGエレクトロニクス製のアクティブサスペンションを搭載したMP4/7Bを準備しており、シーズン中のテストでも実際に走らせていたが、熟成に手間取ったために実戦投入されることはなく、実戦投入は1993年のMP4/8に持ち越しとなった。マクラーレンMP4シリーズはオス型成型のカーボンモノコックにアッパーカウルを被せる手法を継続してきたが、MP4/7Aではトレンドに従いメス型成型に変更された。曲線のついた細いノーズは控え目ながらハイノーズ化された。ハイテク装備では、前年のMP4/6からテストしていたセミオートマチックトランスミッションを正式に採用。エンジンのスロットル制御は機械式に代わり電気式のドライブ・バイ・ワイヤを導入した。ホンダ最後のV12エンジンとなったRA122E/Bエンジンは、シャーシー搭載時の空力性能を阻害しないフォルムを追求するためにオイルポンプなどの補機類を全てエンジン前半部に配置し、エキゾーストマニホールドの拡幅を防ぎ、またテールパイプをエンジン付近に配置することで排気系レイアウトをコンパクトにした。ドライバーはアイルトン・セナとゲルハルト・ベルガーで、1991年と同じ。1992年シーズン、マクラーレンは開幕からの3戦を前年に使用したMP4/6を改良したMP4/6Bで戦う予定であった。これは信頼性が不安視される序盤を、確実に乗り切る戦略を取ったことによるものであった。しかし、蓋をあけてみると、リアクティブサスペンションなど最先端の電子制御システムを開幕から投入したウィリアムズ・FW14Bが抜群の信頼性と圧倒的な速さを見せ、ナイジェル・マンセルが2連勝を飾った。開幕ダッシュに失敗したマクラーレンは、第2戦メキシコGPで惨敗した翌日、イギリス・シルバーストン・サーキットでテストドライバーのマーク・ブランデルによりニューマシンMP4/7Aの実走テストを開始した。でき上がったばかりのマシンではMP4/6Bとの比較もままならなかったが、旧型車ではウィリアムズに太刀打ちできないことが明らかであったことから、予定より大幅に前倒しして第3戦ブラジルGPよりMP4/7Aを実戦投入した。第3戦ブラジルGPで、マクラーレンはなりふり構わぬ物量戦術・人海戦術に打って出た。シャシーの使用制限が無かったこの時代は、レースカー2台に加えてTカー(スペアカー)1台とスペアモノコック1台を持ち込むのが通常であったが、ブラジルGPでは新車MP4/7Aの3台に加え、万一のために旧車MP4/6Bも3台、さらにはMP4/7A用に同時投入した新型エンジンRA122E/Bと旧型RA122Eをそれぞれ6機ずつ持ち込み、マクラーレン、ホンダともに通常の倍の人員で臨んだ。しかし、予選ではポールを獲得したマンセルに3位のセナは2秒も離され、レースでも両ドライバーとも序盤でリタイアとなった(セナはエンジンのミスファイア、ベルガーはギヤボックストラブル)。第6戦モナコGPではマンセルのタイヤトラブルによりセナが優勝。第7戦カナダGPでもベルガーが勝利して波に乗るかと思われたが、ウィリアムズとの差は容易に詰まらず、ミハエル・シューマッハをエースとしたベネトンとコンストラクターズ2位争いを演じることとなった。ホンダは第2期最後の地元レースとなった日本GPで特別スペックを投入したが、セナはエンジントラブルで早々にリタイアした。最終戦オーストラリアGP予選ではウィリアムズとの差をコンマ5秒差まで詰めた。最終的に5勝を挙げコンストラクターズ2位は死守したが、から続けたコンストラクターズ連覇は4でストップした。セナとベルガーはドライバーズポイントでシューマッハに敗れた。通常、F1チームは同一のシャーシを複数台製作する。レースカー・スペアカー・テストカー・クラッシュテスト用など、トップチームともなれば年間7~8台程度を製作し素性の良いシャーシをレースカーとして投入する。しかし、MP4/7Aはモノコックだけで10台以上が量産されたといわれ、戦闘力不足に苦しんだチームが、細かな修正を加えながらセナが納得するシャーシの製作に奔走したエピソードとして、『F1ポールポジション』の番組内で今宮純により語られている。
出典:wikipedia
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