拳骨 拓史(げんこつ たくふみ、1976年(昭和51年) - 、本名未詳)は、作家。東洋兵法・東洋史、経営学の研究家。中央乃木会理事。和歌山県出身。。名越二荒之助の講義に深い感銘を受け、師事。2003年(平成15年)頃には名越の活動を補助するため、青山霊園や多磨霊園などの案内や解説などを担当したほか、漢詩に日本語訳をつけるなどしていた。名越の死亡直前、著書の執筆を託され、『これだけは伝えたい武士道のこころ』(防衛弘済会)を共著して刊行。また杉之尾宜生元防衛大学校教授に指導を仰ぎ、兵法経営の研究をおこなう。なおペンネーム「拳骨」は、「固くて強い、そしてみんなにすぐ覚えてもらえる」という理由で、名越が命名した。基本的に師匠である名越の主張を継承している。ただし、中国人や韓国人であっても汪兆銘や韓国人特攻隊の戦死者のような親日家である外国人には畏敬の念を示しており、中国人や韓国人を民族的に罵倒するような主張はおこなっていない。またそういった主張を好ましいと思っていない、とする記載もなされている。むしろ主張の矛先は『日中韓2000年の真実』のあとがきにあるように、日本人による反日活動の結果、本当の親日外国人が困窮させられているといった現状に向けられており、日中問題、日韓問題の根本は「日日問題」との主張をおこなっている。そのため日本はいたずらに中国、韓国を罵倒するのではなく、中国、韓国にいる親日家と連携・育成・支援することで、現状の閉塞状況を打開するように工作することが重要であると述べている。(『韓国人に不都合な半島の歴史』、『韓国「反日謀略」の罠』、『韓国が次に騒ぎ出す「歴史問題」』参照)歴史問題以外では、経営コンサルタントの立場から、帝国陸軍の教本を用い、戦略・戦術・心理学などでビジネスに応用できるものを活用し、「(ダイエーなど)滅びた組織はすべてダメであったかといえばそうではない。ダメな部分はそれとして、そのなかでも優れた部分があればこれを抽出し、活用しなければ日本企業の発展はありえない」という主張をおこない、歴史の経営への転化を主張するなどしている。また著書である『韓国「反日謀略」の罠』では、同年に発生した産経新聞ソウル支局長起訴問題を予測(同書に今後の動きとして「韓国に拠点を持つ大手マスコミに反韓的な記載があれば、ソウル特派員の逮捕や追放、支局閉鎖などの脅しをするほか、駐日大使館へ組織的抗議や威嚇をおこなう」と明記)。また韓国政府が反日政策の予算を強化などを指摘している。1940年(昭和15年)、陸軍航空通信学校の井戸に身を投げ、相次ぐ戦闘機事故の根絶を願った藤田多美子という女性がいた。戦時中は美談と讃えられ胸像や歌碑などが建立されたが、戦後は行方知れずとなっていた。拳骨は50年前の『朝雲新聞』に、多美子の父親が「せめて、自衛隊の飛行場の見えるところに置いてやりたい」と述べていたのを見つけ、調査を開始した。調査は難航したものの、2011年(平成23年)12月8日、平間洋一が主催する勉強会で講師として招かれた崔三然元韓国空軍大佐が学校のOBであることを知り、協力を要請。このことは2012年(平成24年)8月15日の『産経新聞』に終戦特集として掲載され、拳骨は「国のために殉じた人は等しく尊敬されなければならない。藤田さんの遺志を伝え、鎮魂してもらいたい」と述べた。崔も、拳骨の活動に対し「貴方の様なお方がいる限り日本は誇りを失いません」とエールを送った。拳骨は、『韓国人に不都合な半島の歴史』の中で一連の活動について紹介し、「(藤田多美子女史の慰霊がなされなかったことは)日本にとって不幸ではあったが、韓国の崔三然元大佐の協力により、日韓友好の新しい架け橋としての役割を担った」「(拳骨が)自虐史観を持ち、(崔氏が)反日史観をもっていたとすればこのような活動は成り立たなかったであろう。日本と韓国は自虐史観を反日史観を超越したときに、真の友情が築けるのだ」と総括した。二人は胸像が無事に現存していることを確認し、陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地への安置された。その後、2013年(平成25年)4月13日に土浦市にあるホテルマロウド筑波にて日本郷友連盟を主催とする「大空の女神・藤田多美子鎮魂式」が挙行され、寺島泰三元統合幕僚会議議長や藤田幸生元海上幕僚長、櫻木正朋霞ヶ浦駐屯地司令など多くの人々が参列し、その精神の顕彰をおこなった。
出典:wikipedia
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