万俟 洛(ぼくき らく、? - 539年頃)は、中国の東魏の軍人。字は受洛干。本貫は太平郡。万俟普の子として生まれた。523年、破六韓抜陵が乱を起こすと、父とともに北魏に帰順し、顕武将軍に任じられた。爾朱栄に従って戦功を挙げ、汾州刺史・驃騎将軍に累進した。531年、高歓が起兵すると、父とともに高歓の礼遇を受けた。撫軍となり、霊州刺史を兼ねた。534年、孝武帝が関中に入ると、尚書左僕射に任じられた。天平年間、父に従って東魏に帰順し、建昌郡公に封じられ、領軍将軍となった。538年、諸将とともに独孤信を金墉で包囲し、河橋の戦いにも参加して、ともに功績を挙げた。高歓がかれの父の万俟普をとくに礼遇し、自ら万俟普の乗馬を助けたので、万俟洛は死力を尽くして恩義に報いることを決意した。河橋の戦いにおいて、東魏の諸軍が北方に橋を渡ったとき、万俟洛は一軍を率いて動かず、西魏の軍に対して「万俟受洛干ここに在り、来ることができるなら来てみるがいい!」と言い放ったので、西魏の軍はおそれて去ったという。高歓は万俟洛の雄壮を讃え、万俟洛の陣営のあった場所を名づけて回洛城とした。死後に太師・大司馬・録尚書の位を追贈され、諡を武といった。
出典:wikipedia
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