ネリー・ウラジーミロヴナ・キム(Nellie Vladimirovna Kim, 1957年7月29日 - )は、ソビエト連邦(現ロシア連邦)の元女子体操競技選手。1976年のモントリオール五輪で三つの金メダルと一つの銀メダルを獲得し、1980年のモスクワ五輪でも二つの金メダルを獲得した。五輪大会の跳馬とゆかで10点満点の採点を受けた史上初の選手である。1999年7月に国際体操殿堂入りした。1957年7月29日、ネリー・キムはタジク・ソビエト社会主義共和国レニナバード州(現タジキスタン共和国ソグド州)の街シュラブで、朝鮮系ソビエト人の父ウラジーミル・キムとタタール人の母アルフィヤの長女として生まれた。キムは9歳のとき、カザフスタンのチムケントにあるスパルタクスポーツ協会青少年スポーツ学校に入学した。弟のアレクサンドルと妹のイリーナも体操学校に入って、しばらくの間訓練を受けていたが、アレクサンドルは背が低かったので中学校の同級生にいじめられ、ボクシングを選んで体操学校を辞めてしまった。また、ネリーが自分より才能があると思っていたイリーナも、頻繁に通わなくてはならないため体操学校を辞めた。キムのトレーナーはウラジーミル・バイディンと妻のガリナ・バルコワだった。入学したばかりのキムを見て、その生来的な気品と才能に強い印象を受けたバイディンは彼女に自分のクラスへ入るよう勧めていた。当初、キムは仲間の多くと比較して柔軟性が充分ではなかったが、優秀な技術と困難な訓練で、すぐにそれを埋め合わせることができた。キムの最も早い時期での成功は、1969年にチムケントで開かれたスパルタク共和国競技大会での優勝だった。にもかかわらず、その1年後、彼女は有名な元体操選手のラリサ・ラチニナに「将来性がない」と言われてしまう。キムはその「評決」の後、もう少しで体操を辞めそうになったが、バイディンの励ましにより何とか競技を続けた。最初の全国大会となった1971年のジュニアソビエト連邦選手権で、キムは個人総合で5位に入った。さらに、その2年後の1973年にはシニアの全国大会と国際大会デビュー戦でも好成績を挙げる。全連邦ユーススポーツ大会でキムは個人総合で優勝、その他に二つの金メダルを獲得。ソビエト連邦カップでは個人総合8位、段違い平行棒では1位、日本では中日カップ に出場して優勝した。1974年8月のソビエト連邦カップを2位で終えた後、キムはその年の10月に行われる世界選手権ヴァルナ大会のチーム名簿に加えられ、団体総合で金メダルを獲得した。その後、1980年まで彼女は多くのトップレベルの国際大会に出場して好成績を挙げた。ソビエトのチームメイトやコーチの間でのキムのニックネームは「キマネリー」だった。トレーナーのウラジスラフ・ラストロツキーが彼女を大急ぎで呼んだとき「Kim, Nellie、電話だ!」と言ったのが、このニックネームの由来である。1975年のカナダプレ五輪大会の後、キムは来るべきモントリオール五輪での主要なメダル有望選手の一人になり、ソビエトチームの実質的なリーダーになった。この大会でキムは、個人総合ではルーマニアのナディア・コマネチに次ぐ2位だったが、種目別決勝で三つの金メダル(跳馬、ゆか、平均台)を獲得した。キムに対するかつての見解を既に変えていたラリサ・ラチニナはキムの体操スタイルを「快活できらめきがある」と評し、カナダの新聞が書いた彼女の演技に対する論評を引用して「自然の微笑には勝利よりも価値があると思える瞬間の連続だった」ともコメントした。1976年のソビエト連邦カップでもキムはリュドミラ・ツリシチェワやオルガ・コルブトのような有名選手に勝って優勝したが、メディアは依然として彼女らがソビエトのリーダーだと考えていた。ソビエトコーチ会議でさえもキムをリーダーだとは明確に示さなかったのである。それは、後にソビエトの専門家も認める間違いだった。1976年モントリオール五輪でのネリー・キムとナディア・コマネチの対決は女子体操競技の焦点となり、大いに注目を集めた。金メダル争いにおいて、キムのチームメイトでミュンヘン五輪チャンピオンのツリシチェワとコルブトは二人の躍進するスターにすっかり圧倒された。キムは団体総合で金メダル。跳馬とゆかでも金メダルをとり、合計三個の金メダルを獲得した。バレンチナ・コソラポワが振付を担当したゆかの演技の音楽は、火のようなサンバだった。エレメンツの一つは後方への二回宙返りで、これは五輪史上女子として初めて行われた演技だった。彼女は個人総合で銀メダルを獲得したが、10点満点をマークした跳馬で見せた抱え込みのツカハラ跳び一回ひねりも五輪史上初めて行われた演技である。キムは、その女性美と優美で華麗で激しい演技スタイルを称讃された。当時、カナダ国立映画制作庁(National Film Board of Canada)がモントリオール五輪でのキムの姿を丹念にカメラで追い、彼女に関するドキュメンタリー映画「Nelli Kim」を制作した。この作品は1978年にカナダで一般公開されている。モントリオール五輪の後、キムは白ロシア・ソビエト社会主義共和国(現ベラルーシ共和国)に移り、ミンスクの軍スポーツ協会に加入した。2年後の世界選手権ストラスブール大会でも、キムは好成績を残す。この大会で彼女は跳馬、ゆか、団体総合で金メダルを取り、個人総合でもエレナ・ムヒナ(ソビエト)に次いで銀メダルを獲得した。彼女が最もよい成績を挙げたのは1979年の世界選手権フォートワース大会においてであった。この大会でキムは、マキシ・グナウク(東ドイツ)、メリタ・リューン(ルーマニア)、マリア・フィラトワ(ソビエト)といった強豪に打ち勝ち、個人総合で優勝した。ガリナ・サヴァリナが振付を行ったゆかの演技では新しい楽曲が使用された。サンタ・エスメラルダの「朝日のあたる家」である。この曲は翌年のモスクワ五輪でも使われた。1980年のソビエト連邦選手権でもキムは個人総合で優勝し、彼女にとって最後の競技大会となったモスクワ五輪に出場した。大会では、ゆかでコマネチと同点優勝。団体総合でも金メダルを獲得した。彼女の体操演技は、非常に女性らしい優雅さと激しさ、強いカリスマ性をあわせ持ち、それによって人々に長く記憶されている。モスクワオリンピックを最後に現役から引退したキムは、自分自身の競技経験を伝えるべく、ベラルーシ、韓国、イタリア、南アフリカの各ナショナルチームでコーチをつとめた。また、1983年に白ロシア体操審判委員会の委員長に就任。1984年に国際名誉審判になり、欧州選手権、世界選手権、オリンピック大会をはじめとして数多くの国際競技大会の審判を経験している。1996年には国際体操連盟(FIG)・女子体操技術委員会(WTC)の委員に選ばれ、2001年にWTCの第一副委員長に就任。そして、2004年10月、トルコのアンタルヤで開催されたFIGの会議でキムはWTCの委員長に選出された。委員長として彼女は2006年の採点法変更に尽力した。それは10点満点方式を終わらせ、上限のない採点を導くものだった。採点法変更の大きな原因となったのは2004年のアテネ五輪で続発した審判の採点をめぐるトラブルだった。キムやブルーノ・グランディ会長を含むFIGの役員たちは将来において同様のトラブルが発生することを防ぎ、競技のフェアな実施と芸術性を優先させるための有力な手段は旧採点法の急進的な変革だと考えたのである。この動きはファンやアスリートの間でも論争の的になった。キムや他のFIGの役員は、新採点法は旧採点法で多くの採点をしてきたFIGの委員や審判からの助力と助言で立案されたのだと指摘し、最終的な採用の前にメジャーな国際大会でこのシステムをテストすると強調した。最終的に新採点法は、大きな大会としては2006年の世界選手権オーフス大会から正式に導入された。
出典:wikipedia
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