叢雲(むらくも)は大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦吹雪型の5番艦。雲級の1番艦。当初の艦名は、第39号駆逐艦。この名を持つ帝国海軍の艦船としては東雲型駆逐艦「叢雲」に続いて2隻目。1927年(昭和2年)4月26日、建造予定の一等駆逐艦4隻に、それぞれ「第36号駆逐艦(のちの白雪)」、「第38号(〃深雪)」、「第39号(〃叢雲)」、「第44号(〃浦波)」の艦名が与えられた。「第39号駆逐艦」は藤永田造船所で、同年4月25日(正式命名の前日)起工。1928年(昭和3年)8月1日附で「第39号駆逐艦」は「叢雲」と改名された。同年9月27日進水。10月20日、日本海軍は砲艦「嵯峨」艦長柳原信男中佐を叢雲艤装員長に任命する(後任の嵯峨艦長は熊澤桝蔵中佐《当時、潜水母艦迅鯨副長》)。11月3日、藤永田造船所に叢雲艤装員事務所を設置する。1929年(昭和4年)5月10日、本艦は竣工。柳原信男中佐(叢雲艦長)、有田雄三大尉(叢雲水雷長)、小倉藤三郎大尉(叢雲砲術長)、室田勇次郎(叢雲航海長)、高橋伊三次機関大尉(叢雲機関長)。同日附で艤装員事務所を撤去。第二艦隊・第二水雷戦隊・第12駆逐隊(駆逐隊司令有地十五郎大佐)に編入され、同隊は定数4隻(東雲、薄雲、白雲、叢雲)を揃えた。当時の第二艦隊は、第四戦隊(榛名、比叡)、第五戦隊(加古、古鷹、衣笠、青葉)、第二水雷戦隊(旗艦「鬼怒」、第11駆逐隊《初雪、深雪、白雪、吹雪》、第12駆逐隊《東雲、白雲、薄雲、叢雲》、第23駆逐隊《望月、菊月、三日月、夕月》)、第二潜水戦隊という編制だった。7月9日、第一戦隊(陸奥、日向、山城)以下、第一艦隊・第二艦隊主力艦艇は大分県の佐伯湾に集結していた。同日夜、第二水雷戦隊(旗艦「鬼怒」)は第四戦隊(榛名《第二艦隊旗艦、司令長官大角岑生中将》、比叡)と豊後水道で演習を実施するが、午後10時頃に駆逐艦「望月」(第23駆逐隊司令駆逐艦)が第12駆逐隊「叢雲」右舷に衝突。叢雲側戦死1名、負傷2名。「望月」は「三日月」に、「叢雲」は「白雲」に曳航され、第二水雷戦隊各艦に護衛されて呉に帰投した。前年8月24日の美保関事件ほどの死傷者は出なかった。11月30日、有地(第12駆逐隊司令)は金剛型戦艦3番艦「榛名」艦長に補職、後任の第12駆逐隊司令は軽巡「神通」艦長町田進一郎大佐となる。柳原(叢雲駆逐艦長)も第24駆逐隊(柳、桃、樫、檜)司令へ転任、駆逐艦2隻(海風、楢)艦長を兼務していた横山茂中佐が叢雲駆逐艦長に任命された。1930年(昭和5年)12月1日、町田大佐は第12駆逐隊司令から古鷹型重巡洋艦1番艦「古鷹」艦長へ転任、後任の12駆司令は第13駆逐隊(若竹、呉竹、早苗、早蕨)司令高山忠三大佐。横山(叢雲駆逐艦長)は高山の後任として第13駆逐隊司令となり、睦月型駆逐艦1番艦「睦月」艦長佐藤慶蔵中佐が叢雲駆逐艦長を拝命する。1931年(昭和6年)10月31日、佐藤(叢雲駆逐艦長)は吹雪型1番艦「吹雪」艦長へ転任、姉妹艦「潮」艤装員長武田喜代吾中佐が叢雲駆逐艦長となる。潮艤装員長は武田中佐から、駆逐艦太刀風艦長田中頼三中佐(太平洋戦争開戦時の第二水雷戦隊司令官)に変わった。12月1日、艦隊の再編により吹雪型3隻(東雲、吹雪、磯波)で第20駆逐隊が新編(第20駆逐隊司令吉田庸光大佐)、第12駆逐隊は3隻編制(叢雲、薄雲、白雲)に変わる。1932年(昭和7年)12月1日、第12駆逐隊司令高山忠三大佐は重巡「古鷹」艦長に補職、後任の12駆司令は第10駆逐隊(狭霧、漣、暁)司令栗田健男大佐。武田(叢雲駆逐艦長)は姉妹艦「東雲」艦長となり、後任の叢雲艦長は秋山輝男中佐となる。1933年(昭和8年)11月15日、第二水雷戦隊旗艦は川内型軽巡洋艦2番艦「神通」から同型3番艦「那珂」に交代した。当時の第二艦隊(司令長官高橋三吉中将、旗艦「鳥海」)は、第四戦隊(高雄、愛宕、摩耶、鳥海)、第六戦隊(古鷹、衣笠、青葉)、第二水雷戦隊、第二潜水戦隊(由良、迅鯨、第19、第29、第30潜水隊)で編制。第二水雷戦隊(旗艦「那珂」)は、第11駆逐隊(深雪、初雪、白雪)、第6駆逐隊(電、雷、響)、第10駆逐隊(暁、狭霧、漣)、第12駆逐隊(白雲、叢雲、薄雲)で編制される。1934年(昭和9年)6月下旬、連合艦隊司令長官末次信正中将(旗艦「金剛」)は連合艦隊の演習を実施。6月29日、演習中に「深雪」と「電」が衝突(深雪は船体切断、沈没)。深雪艦首部分は僚艦2隻(初雪、叢雲)で曳航を試みたが濃霧の中で見失い、翌日の捜索でも発見できず、沈没したものと推定された。11月1日、姉妹艦「薄雲」艦長田村劉吉中佐が佐世保鎮守府副官となり、秋山(叢雲艦長)は2隻(叢雲、薄雲)艦長の兼務を命じられる。11月15日、第12駆逐隊司令栗田健男大佐は長良型軽巡洋艦6番艦「阿武隈」艦長に補職、後任の第12駆逐隊司令は第22駆逐隊司令難波祐之中佐。また峯風型駆逐艦14番艦「波風」艦長瀬戸山安秀少佐が薄雲駆逐艦長に任命され、秋山(叢雲・薄雲艦長)は兼務を解かれた。1935年(昭和10年)4月、満州国の愛新覚羅溥儀皇帝が戦艦「比叡」(当時艦長井上成美大佐)を御召艦として来日することになり、第12駆逐隊(叢雲、薄雲、白雲)は御召艦「比叡」の供奉艦に指定された。第12駆逐隊は「比叡」を護衛して日本と中国大陸を往復した。同年9月26日、「叢雲」は三陸沖で演習中、台風により多数の艦が損傷する第四艦隊事件に遭遇する。当時、第四水雷戦隊旗艦「那珂」は第11駆逐隊(初雪、白雪)、第12駆逐隊(白雲、薄雲、叢雲)、第7駆逐隊(潮、曙、朧)、第8駆逐隊(天霧、夕霧)を率いて演習をおこなっていた。「叢雲」も若干の損傷を受けたが、艦首切断に至った初雪・夕霧程ではなかった。同年11月15日、叢雲駆逐艦長は秋山輝男中佐(補呉防備隊副長)から村山清六中佐(戦艦扶桑航海長)に交代した。1936年(昭和11年)11月15日、第12駆逐隊司令は難波祐之中佐から第23駆逐隊(菊月、三日月、望月、夕月)司令清水他喜雄中佐に交代。12月1日、艦隊の再編により第20駆逐隊(東雲、吹雪、磯波)は解隊、「東雲」は第12駆逐隊に、「吹雪」は第11駆逐隊に、「磯波」は第20駆逐隊にそれぞれ編入、第12駆逐隊は吹雪型4隻(叢雲、東雲、薄雲、白雲)に戻った。同日附で村山(叢雲駆逐艦長)は最上型重巡洋艦2番艦「三隈」副長へ転任、浅間型装甲巡洋艦2番艦「常磐」水雷長山本岩多少佐が後任の叢雲駆逐艦長となる。1937年(昭和12年)7月15日、姉妹艦「白雲」艦長山隈和喜人少佐は朝潮型駆逐艦4番艦「荒潮」艤装員長に補職。同艦は艦長不在となったため、山本(叢雲駆逐艦長)が白雲駆逐艦長を兼務する。10月20日、山本岩多少佐(叢雲艦長)の兼務は「白雲」から「薄雲」となり、山本皓少佐の艦長兼務が駆逐艦2隻(薄雲、東雲)から(白雲、東雲)になった。12月1日、第12駆逐隊司令清水他喜雄大佐は第25駆逐隊(朝潮、大潮、満潮、荒潮)司令に補職、第30駆逐隊(睦月、如月、弥生、卯月)司令平塚四郎大佐(深雪沈没時の電艦長)が後任の第12駆逐隊司令となる。また姉妹艦初雪艦長鳥居威美中佐が薄雲艦長に任命され、山本岩多(叢雲、薄雲)艦長は兼務を解かれた。1938年(昭和13年)12月15日、平塚(第12駆逐隊司令)は敷設艦「沖島」艦長。後任の12駆司令は第27駆逐隊(菱、蓼、蓬)司令成田忠良中佐。同日附で山本岩多中佐(叢雲駆逐艦長)は姉妹艦「敷波」艦長へ転任。初春型駆逐艦5番艦「有明」艦長古閑孫太郎少佐が叢雲駆逐艦長に任命された。1939年(昭和14年)11月15日、成田大佐(第12駆逐隊司令)は第6駆逐隊司令へ転任、後任の12駆司令は河西虎三大佐(第21掃海隊司令)。12月1日、古閑中佐(叢雲駆逐艦長)は姉妹艦「東雲」艦長へ転任(後日、陽炎型駆逐艦15番艦「野分艤装員長および初代艦長)。後任の叢雲駆逐艦長は中杉清治少佐(神風型駆逐艦7番艦「疾風」駆逐艦長)。1940年(昭和15年)、第12駆逐隊(東雲、白雲、薄雲、叢雲)は第一艦隊・第三水雷戦隊に編入され、旗艦「川内」指揮下で訓練に従事した。7月以降、第二遣支艦隊(指揮官高須四郎中将:旗艦「鳥海」)に編入され、中国大陸へ進出。日中戦争にともなう華中での沿岸作戦、北部仏印進駐作戦などに参加した。だが「叢雲」と共に封鎖作戦に従事していた姉妹艦「薄雲」は、ホ田市の興化湾・南日水道で日本軍機雷に触雷して大破。満潮時になるまで水道通過を見合わせていた「叢雲」は湾内に停泊しており、『お先に』の信号を残して単艦出港した「薄雲」が触雷する結果となった。「叢雲」は「薄雲」を台湾まで曳航。その後「薄雲」は第12駆逐隊から除籍され、12駆は3隻編制になる。同湾に単艦停泊中の「叢雲」には現地の海賊が度々訪問しており、中杉(叢雲)艦長や士官が海賊の根拠地を視察するなどの交流があった。11月3日、「叢雲」は封鎖任務と護衛任務を終えて呉に戻った。本艦内地帰投直前の10月15日、河西大佐(第12駆逐隊司令)は軽巡「神通」艦長へ転任。装甲巡洋艦「八雲」副長則満宰次中佐が第12駆逐隊司令に任命された。1941年(昭和16年)4月10日、中杉清治中佐(叢雲駆逐艦長)は陽炎型18番艦「舞風」艤装員長に補職(7月15日附で舞風初代艦長)。日本海軍は峯風型駆逐艦9番艦「秋風」東日出夫少佐を叢雲駆逐艦長に任命。先任士官は本多敏治大尉に変わった。9月12日に内示された昭和17年度海軍戦時編制によれば、第12駆逐隊(叢雲、東雲)は空母2隻(蒼龍、飛龍)と第二航空戦隊を編制予定であった。しかし太平洋戦争の勃発により、「叢雲」以下第12駆逐隊が同大戦で空母機動部隊に配属される事はなかった。10月20日、第12駆逐隊司令は則満大佐から小川莚喜中佐(第5駆逐隊司令)に交代11月20日、第12駆逐隊は桂島沖を出発して南方へ向かった。大東亜戦争(太平洋戦争)開戦時、吹雪型/雲級3隻(叢雲、東雲、白雲)は引き続き第12駆逐隊(司令小川莚喜大佐)を編制していた。12月17日、単艦で行動中の第12駆逐隊僚艦「東雲」がオランダ軍飛行艇に空襲されて沈没、乗組員全員戦死。第12駆逐隊は2隻(叢雲、白雲)編制になった。南方作戦が一段落した後は蘭印作戦に参加する。3月1日のバタビヤ沖海戦で、第12駆逐隊(白雲、叢雲)は第五水雷戦隊や第七戦隊第2小隊(三隈、最上)・第11駆逐隊(初雪、白雪、吹雪)・第19駆逐隊「敷波」等と共同し、連合軍艦隊残存艦(重巡洋艦ヒューストン、軽巡洋艦パース)を共同で撃沈した。東艦長は軍装を整え、軍刀を持って叢雲艦橋に立ち指揮を執ったという。「ヒューストン、パース」撃沈後の0330、第12駆逐隊(白雲、叢雲)はソワートウェー島西方約5浬でオランダ海軍駆逐艦「」を発見、砲撃を行った。「エヴェルツェン」は煙幕を展開して逃走後にセグク島で擱座して放棄される。翌朝、「叢雲」は座礁した「エヴェルツェン」を発見し、装載艇を派遣して無人の「エヴェルツェン」艦内を調査。ビール、ジャガイモを捕獲して「叢雲」の食卓に供した。3月10日、第12駆逐隊は解隊(小川莚喜中佐は3月14日附で第8駆逐隊《朝潮、大潮、満潮、荒潮》司令)。「白雲」は第20駆逐隊に編入。「叢雲」は第11駆逐隊(司令荘司喜一郎大佐)に編入され、開戦時以来吹雪型3隻体制だった第11駆逐隊は4隻(吹雪、白雪、初雪、叢雲)に増強される。当時の第11駆逐隊区分は、第1小隊1番艦「初雪(駆逐隊司令艦)」、2番艦「白雪」、第2小隊3番艦「吹雪」、4番艦「叢雲」であった。内地帰投後はミッドウェー攻略作戦に向け準備を行うが、料理屋の芸者も「今度はミッドウェイですね」と次の作戦を知ってたという。6月上旬のミッドウェー海戦で、第三水雷戦隊(川内、第11駆逐隊《吹雪、白雪、初雪、叢雲》、第19駆逐隊《磯波、浦波、敷波、綾波》、第20駆逐隊《天霧、朝霧、夕霧、白雲》)および第24駆逐隊(江風、海風)、第27駆逐隊(時雨、白露、夕暮)は主力部隊(山本五十六連合艦隊司令長官:戦艦《大和、長門、陸奥》、高須四郎中将:《扶桑、山城、伊勢、日向》、空母鳳翔等)を護衛した。本海戦で「叢雲」が米軍と交戦する事はなかった。7月15日、第11駆逐隊司令は荘司喜一郎大佐から、杉野修一大佐にかわった。同月中旬、日本海軍はインド洋方面通商破壊作戦B作戦を発動。同作戦参加戦力は第七戦隊(司令官西村祥治少将:巡洋艦熊野、鈴谷)、第三水雷戦隊(川内、第11駆逐隊、第19駆逐隊、第20駆逐隊)、第二水雷戦隊(第2駆逐隊《村雨、五月雨、夕立、春雨》、第15駆逐隊《黒潮、親潮、早潮》)等によって構成され、第一南遣艦隊(旗艦「香椎」)の指揮下に入り、マレー半島西岸メルギー()に集結する。空母の援護もなく、敵商船拿捕を目的とした作戦に水雷戦隊の士気は一気に下がってしまったという。8月8日、ガダルカナル島の戦いが始まった事により作戦は中止され、各隊・各艦はダバオを経由してトラック泊地やソロモン諸島へ向かった。8月24日、「叢雲」以下第三水雷戦隊は第八艦隊(司令長官三川軍一中将:旗艦「鳥海」)・外南洋部隊に編入された。25日、第11駆逐隊(吹雪、白雪、初雪、叢雲)はラバウルに到着。第三水雷戦隊の到着をもって第二水雷戦隊司令官田中頼三少将(臨時旗艦「衣笠」)は外南洋部隊増援部隊指揮官を更迭され、増援部隊指揮官は三水戦司令官橋本信太郎少将となる。同島を巡る攻防戦では、米軍に奪取されたガダルカナル島・ヘンダーソン飛行場が重要な役目を果たした。8月24-25日の第二次ソロモン海戦では、同飛行場から発進した米軍機によって第二水雷戦隊が護衛していた日本軍輸送船団が撃退され(駆逐艦睦月、輸送船金龍丸沈没、軽巡神通中破)。制空権なき海域での輸送船団突入は成功の見込みがなくなっていた。そこで高速の駆逐艦に物資を搭載しての揚陸作戦(通称鼠輸送)が始まるが、制空権のない海域を往復するため損傷艦が続出する。一例として、一木支隊増援部隊を輸送中の第24駆逐隊(司令村上暢之助大佐:江風、海風、磯風《臨時編入》)と、第20駆逐隊(夕霧、天霧、朝霧、白雲)は米軍機に襲撃され、8月28日に「朝霧」沈没、「白雲」大破、「夕霧」小破、第20駆逐隊司令山田雄二大佐戦死という損害を受けて揚陸作戦を中止するに至った。その頃の「叢雲」は、一時的に第十八戦隊(司令官松山光治少将:軽巡天龍、龍田)の麾下でラビの戦いに参加していた。8月28日14時、軽巡「天龍」、第17駆逐隊(浦風、谷風)に護衛された駆逐艦3隻(叢雲、嵐、弥生)と哨戒艇3隻は、呉鎮守府第三特別陸戦隊(海軍陸戦隊)約770名を乗せてラバウルを出撃、29日18時にパプアニューギニアのミルン湾ラビ東方に到着して陸戦隊を揚陸する。30日、「叢雲、浦風、谷風」は順次ラビを発ち、それぞれショートランド泊地へ向かった。9月1日、駆逐艦2隻(夕立、叢雲)は陸軍川口支隊の舟艇ガ島揚陸作戦(蟻輸送)を支援するため、輸送船2隻(佐渡丸、浅香山丸)を護衛してショートランド泊地を出撃、途中まで同行した。この大発動艇による輸送作戦は、波浪と米軍機の襲撃により大損害を出した。9月4日0330、夕立隊(夕立、初雪、叢雲)と浦波隊(浦波、敷波、有明)はショートランド泊地を出撃、同日0854には第三水雷戦隊(川内、涼風、江風、海風)がショートランド泊地を出撃、それぞれガ島へ輸送作戦を実施した。揚陸作戦と並行して夕立隊(夕立、初雪、叢雲)は吉川潔夕立駆逐艦長指揮のもとルンガ泊地に突入して飛行場砲撃を実施、さらに駆逐艦(高速輸送艦)2隻(グレゴリー、リトル)を撃沈した。報告を受けた宇垣纏連合艦隊参謀長は陣中日記『戦藻録』で吉川艦長を絶賛している。9月7日、駆逐艦5隻(涼風、江風、海風、叢雲、初雪)はガ島への輸送を実施した。この時、ガ島第十三設営隊長岡村徳長少佐は叢雲艦長に陸軍舟艇機動隊の窮状を伝達、「叢雲」の報告を受けた第八艦隊/増援部隊は対応に追われる。9月10日夜、3隻(叢雲、浦波、敷波)は遭難した陸軍川口支隊の舟艇を収容するためショートランド泊地を出撃してサボ島~ガ島方面を捜索、「叢雲」は収容した陸兵を11日夜にガ島カミンボへ揚陸した。9月13日、駆逐艦部隊(江風、海風、浦波、叢雲、夕立)はガ島へ突入するが敵艦隊を認めず、対地砲撃を実施した。9月14日深夜、軽巡「川内」と駆逐艦部隊(嵐、江風、海風、浦波、敷波、白雪、叢雲)はガ島輸送のためショートランド泊地を出撃したが15日朝の揚陸は中止、「江風、海風、浦波、敷波、白雪、叢雲」のみでガ島揚陸を実施した。9月18日、駆逐艦4隻(嵐、海風、江風、涼風)がガ島輸送を実施し、軽巡「川内」と駆逐艦4隻(浜風、浦波、白雪、叢雲)はガ島砲撃をおこなった。同時期に行われた日本陸軍のガ島総攻撃は大失敗に終わり、日本陸海軍は高速輸送船団による大規模輸送作戦を立案、その一環として戦艦によるガ島飛行場砲撃が実施されることになった。駆逐艦による鼠輸送も並行して続けられた。10月1日、駆逐艦4隻(初雪、白雪、叢雲、吹雪)でガ島輸送作戦を実施するが、空襲回避中に「初雪」は舵故障を起こす。司令駆逐艦を「白雪」に変更し、3隻(白雪、叢雲、吹雪)で陸軍青葉支隊司令部80名、糧食等のガ島輸送を実施した。10月4日、第27駆逐隊司令瀬戸山安秀大佐(司令駆逐艦時雨)の指揮下、駆逐艦5隻(時雨、吹雪、白雪、叢雲、綾波)はガ島輸送を実施した。10月7日朝、水上機母艦「日進」および駆逐艦6隻(秋月、時雨、吹雪、白雪、叢雲、綾波)はショートランド泊地を出撃。ところが天候不良のため警戒の零戦を配備できず、日進隊(日進、秋月)は反転帰投。駆逐艦部隊(時雨《旗艦》、吹雪、白雪、叢雲、綾波)でガ島輸送を実施した。10月11日深夜、ガダルカナル島飛行場砲撃に向かった第六戦隊部隊(重巡洋艦《青葉、古鷹、衣笠》、駆逐艦《初雪、吹雪》)は米艦隊に待ち伏せされ、夜間水上戦闘により重巡「青葉」が大破、2隻(古鷹、吹雪)が沈没した(サボ島沖海戦)。12日昼間、吹雪型駆逐艦「叢雲」は沈没した「古鷹」救援中に米軍機の空襲を受け、朝潮型駆逐艦「夏雲」と共に撃沈された。経過は以下のとおり。10月上旬、ガダルカナル島で苦戦する日本陸軍第17軍司令官百武晴吉中将は、「兵員の増援より食糧弾薬こそ必要」と各方面に要請した。そのため車輌・重火器を搭載可能な水上機母艦(甲標的母艦)「日進、千歳」を輸送作戦に投入する事になった。護衛駆逐艦と輸送隊として秋月型駆逐艦1番艦「秋月」と吹雪型駆逐艦「綾波」、さらに第9駆逐隊司令佐藤康夫大佐指揮下の駆逐艦4隻(第9駆逐隊《朝雲、夏雲》、第11駆逐隊第1小隊《白雪、叢雲》)が指定される。なお戦史叢書では警備駆逐艦の「白雲」が日進輸送隊に参加したことになっているが、同艦は前述のように8月28日の空襲で大破、警備駆逐艦に指定され、呉鎮守府所属艦となって外南洋部隊から除かれている。サボ島沖海戦時は日本本土で修理中だったため、サボ島沖海戦や日進輸送隊には参加していない。10月11日朝、ガ島輸送隊(日進、千歳、秋月、綾波、朝雲、夏雲、白雪、叢雲)はショートランド泊地を出撃、ガダルカナル島へ向かった。日進輸送隊の直衛にあたった零式艦上戦闘機のうち、最後の6機は日没まで直衛を行い予定どおり駆逐艦の傍に着水したが、不時着時に2名が戦死した。揚陸作戦そのものは無事に成功した。水上機母艦による輸送作戦と並行して、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場艦砲砲撃も実施予定だった。10月11日昼間、第11駆逐隊第2小隊「吹雪、初雪」は、第六戦隊(司令官五藤存知少将)の重巡洋艦3隻(青葉、古鷹、衣笠)とともにブーゲンビル島ショートランド泊地を出撃し、ガ島・ヘンダーソン飛行場砲撃に向かった。同日、連合艦隊司令長官山本五十六大将の下令によって第三戦隊(司令官栗田健男中将)の金剛型戦艦2隻(金剛、榛名)及び護衛部隊(第二水雷戦隊)による『第二次挺身隊』も飛行場艦砲射撃を行うべくトラック泊地を出撃しており、第六戦隊は『第二次挺身隊』に先駆けて飛行場砲撃を行う予定である。航空偵察や輸送隊からの報告により「敵艦隊の存在なし」と判断した外南洋部隊支援隊(第六戦隊)に対し、米軍はガダルカナル島への増援部隊(陸兵約3000名)輸送船団からノーマン・スコット少将率いる重巡洋艦2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦5隻の艦隊を引き抜き、アイアンボトム・サウンドに派遣して待ち構えていた。夜間の水上戦闘により、第六戦隊部隊は重巡「古鷹」と駆逐艦「吹雪」が沈没、旗艦「青葉」大破(五藤司令官戦死)という被害を受ける。「初雪」は「古鷹」乗組員を救助後、戦場を避退した。日進隊からはサボ島沖の夜戦と、誘爆する大型艦の姿が見えたという。「衣笠」より「古鷹」航行不能と米艦隊の存在について報告を受けた外南洋部隊指揮官(三川軍一第八艦隊司令長官)は、『第六戦隊及駆逐隊は速に突撃敵を攻撃撃滅すると共に日進、千歳を収容すべし』と下令、増援部隊(第三水雷戦隊)にも日進隊支援を命じた。増援部隊指揮官(三水戦司令官)橋本少将は、指揮下艦艇(軽巡《川内、由良》、駆逐艦《天霧、浦波、磯波、時雨、白露》)をひきいてショートランド泊地を出撃。水上機母艦「千代田」と軽巡「龍田」による甲標的基地設置のための出撃は中止された。なお戦史叢書では出撃艦を「川内、由良、夕霧」とするが、前述のように「白雲、夕霧」は8月28日の空襲で損傷、サボ島沖海戦時は共に日本本土で修理中だった。実際に出撃した駆逐艦は「天霧」である。10月12日日付変更後、外南洋部隊の下令を受けた「日進」は、指揮下の第9駆逐隊(朝雲、夏雲)に対し重巡「衣笠」と合同して敵艦隊を攻撃するよう下令。第11駆逐隊第1小隊(白雪、叢雲)には「古鷹」救援を下令した。駆逐艦2隻(白雪《第11駆逐隊司令駆逐艦》、叢雲)は「古鷹」遭難現場に向かったが発見できず、また敵大型艦を認めて雷撃を行ったが、効果はなかった。2隻は夜明け前にヘンダーソン飛行場の空襲圏内から離脱すべく避退を開始。だが夜明けと共に米軍機の空襲を受ける。「叢雲」は艦尾に被弾してスクリューを喪失。続いて至近弾や、一番砲塔・魚雷発射管などへの直撃弾で上部構造物を破壊され、魚雷命中こそなかったものの戦闘不能となる。本多(叢雲水雷長)によれば、救援にきた「初雪」に東日出夫(叢雲)艦長・本多以外の全乗組員が移乗し、「初雪」は航行不能の「叢雲」を残して現場を去った…と回想している。次に第9駆逐隊(朝雲、夏雲)が到着したが、「夏雲」は空襲を受けて14時30分頃に轟沈する。「朝雲」は「夏雲」乗組員を救助して避退した。第11駆逐隊(白雪、叢雲)が空襲を受けつつあった午前7時、日進隊(日進、千歳、秋月、綾波)は増援部隊(川内、由良、駆逐艦5隻)と合流する。「由良、時雨、白露、天霧」は日進隊を護衛してショートランド泊地へ戻った。「川内」と第19駆逐隊は「叢雲」救援のため12時頃に日進隊と分離、16時40分に「叢雲」を放棄して避退中の2隻(朝雲、白雪)と会合する。「川内」隊はショートランドへ向かい、「朝雲、白雪」は「叢雲」救援・曳航のために反転した。日没後、2隻(朝雲、白雪)は炎上する「叢雲」の傍に戻る。第11駆逐隊主計士官の藤原によれば、第11駆逐隊司令杉野大佐は座乗する「白雪」より「叢雲」に対し総員退去を命令したが、東中佐は退艦しなかった。そこで菅原六郎白雪艦長が説得におもむき、カッターボートで東中佐を連れ帰った。東艦長は杉野司令の手を握りしめて泣きながら謝罪していたという。その後、2隻(白雪、朝雲)は炎上して艦尾切断状態の「叢雲」曳航を断念。「叢雲」は「白雪」によって雷撃処分された。米軍が記録した沈没地点。11月15日、サボ島沖海戦で沈没した駆逐艦4隻(吹雪、叢雲、夏雲、朧)の除籍が決定。2隻(吹雪、叢雲)は第11駆逐隊からも除かれた。またネームシップの「吹雪」沈没により同日附で『吹雪型駆逐艦』は『白雪型駆逐艦』と改定され、3隻(吹雪、叢雲、朧)は白雪型駆逐艦から除籍された。東日出夫少佐(叢雲駆逐艦長)も同日附で職務を解かれ、11月28日より陽炎型駆逐艦4番艦「親潮」艦長に任命される。翌1943年(昭和18年)5月8日、第15駆逐隊3隻(親潮、黒潮、陽炎)が一挙に沈没すると、6月1日附で親潮艦長を解かれる。三重海軍航空隊教官を経て、1944年(昭和19年)12月1日より秋月型駆逐艦13番艦「花月」艤装員長、初代艦長を歴任。終戦後、駆逐艦「雪風」艦長等を兼務して復員業務に従事した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。