村上 吉充(むらかみ よしみつ、生没年未詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。因島村上氏の第6代当主。父は村上尚吉。妻は乃美宗勝の妹。又三郎、新蔵人。弟に村上吉忠、村上亮康。第3代当主と同名である。因島村上氏は能島村上氏・来島村上氏と並ぶ瀬戸内海を支配した海賊衆で、父・尚吉の代より毛利氏に近い立場にあり、天文24年(1555年)の厳島の戦いの際、毛利・小早川氏から加勢を求められ、重臣・末長景道率いる因島村上水軍を派遣し、小早川水軍の一翼を担い毛利方の勝利に大きく貢献した。その後も毛利・小早川氏に属し、弘治元年(1555年) - 弘治3年(1557年)の防長経略では関門海峡を封鎖するなどの活躍をした。大友氏との戦いがはじまると、永禄4年(1561年)、門司城攻防戦で乃美宗勝の指揮下、大友軍を撃退。天正4年(1576年)、第一次木津川口の戦いでは奮戦し織田水軍を壊滅させ、兵糧米を石山本願寺に運び込むことに貢献した。 吉充には子がなかったため、弟・村上亮康の子、景隆を養子に迎えたが早世したため、その弟の吉亮を後嗣に迎えている。関ヶ原の戦い後、毛利氏の減封に伴って長門国へ移住したが、知行は1800石(2800石とも)しか与えられなかったため、当主の村上元充(吉亮の子)と別れ、因島へ戻り同地で没した。法名は晟清寺殿英中晟春。
出典:wikipedia
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