同志社大学今出川キャンパス(どうししゃだいがくいまでがわこうち)は同志社大学本部のあるキャンパス。今出川キャンパスは旧薩摩藩邸の跡地で、隣接して冷泉家、南に京都御所、北に相国寺がある。キャンパス内には、明治期に建てられた、彰栄館・礼拝堂・有終館・ハリス理化学館・クラーク記念館の5棟(すべて国の重要文化財)が現存する。これらの建物は今も講義・礼拝・学校法人事務室等に使用されている。2010年京都市左京区岩倉に同志社中学校が移転した跡地に、2012年10月、大学の文系学部の移転のため「良心館」(地下2階、地上5階、建築面積約8,000㎡、延床面積約40,000㎡)が完成した。キャンパス東側には、同志社女子大学今出川キャンパス、同志社女子中学校・高等学校、同志社幼稚園が隣接している。相国寺への参道を挟んで東西に校地が分かれており、啓明館、アーモスト館、新島遺品庫(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ設計)がある東側校地は、同志社女子大学とは簡単な仕切りがあるだけで一体的である。今出川・新町・室町・烏丸の各キャンパスは近接し、一般にはこれら4つのキャンパスを併せて今出川校地と呼ばれている。同志社大学の前身・同志社英学校以来の伝統あるキャンパス。幕末の1862年頃には薩摩藩邸が置かれており、元会津藩士山本覚馬(創立者新島襄の妻新島八重の実兄・新島死後の同志社臨時総長)が明治維新の混乱の中で藩邸跡地を取得していた。1875年11月29日の同志社英学校開校時には京都市上京区寺町丸太町上ルの高松保実の屋敷(現在は新島旧邸)の一角を借り、教室兼寄宿舎として利用していた。翌年の1876年、新島は山本から薩摩藩邸跡地の売買譲渡をうけ、同志社英学校が移転。当初は木造建築2棟(第一寮、第二寮の1階を教室、2階を寄宿舎として使用)と食堂棟であった。「自責の杖事件」の舞台となった第二寮は、1970年代に京田辺キャンパスに移築された後、キャンパス拡張により現在は解体保存され、復原が待たれているところである。同志社英学校設立当時の京都はキリスト教排斥運動が激しく、京都府知事槇村正直との間で、校内において教育を行う際に聖書を教えてはいけないとの契約を結んでいた。窮余の策として、現在のアーモスト館付近にあった元豆腐屋を新島名義で買い上げ、学校外のその場所で聖書を教えていた。京田辺キャンパスから今出川キャンパスへの統合移転は、2009年神学部、社会学部が先行して行われた。2013年、文学部、法学部、経済学部、商学部の4学部の統合移転が完了し、人文系・社会科学系学部は1年次から4年次まで、当キャンパスで学ぶ環境が整えられた。ただ、そのために学生数が急増し、従来新町・烏丸キャンパスを含めて約12000人の学生数だったのが、文系学部集約後は約20000人へと急増し、人口過密なキャンパスとなっている。なし今出川キャンパスには以下の文化財建造物がある。同志社大学今出川キャンパスにある日本国政府指定の重要文化財は以下のとおりである。D.C.グリーンが設計し、1886年に竣工。アメリカン・ゴシック調の鉄板葺き煉瓦造り。アメリカン・ボードの寄付によって建築。日本におけるプロテスタント派の煉瓦造りの礼拝堂としては現存する最古のもの。施工は有終館も請け負った三上吉兵衛。ステンドグラスが美しく、徳冨蘆花の小説、『黒い眼と茶色の目』の中で「五色の光線」が降ると形容された。1963年に国の重要文化財に指定され、1987年から1990年まで半解体修理工事が行われた。また、2012年には内部の改修が行われ、椅子や照明が創建当初のものに近い姿のものに交換された。現在も礼拝堂として使用されており、毎週礼拝も行われている。また、週末には同志社関係者に限り結婚式を挙げることもできる。同志社の礼拝堂としては2代目(初代は木造)。室内は休暇時期を除く行事等のない平日の昼休み時間帯に、入室・見学が可能となっている。1887年に、書籍館(しょじゃくかん)として竣工。竣工した当時は日本最大の学校図書館建築物であった。設計はD.C.グリーン。施工は三上吉兵衛。初代大学図書館。1928年昭和天皇が即位式で在京の折、この有終館が出火した。即位式典の場所である御所は、同志社大学今出川キャンパスに隣接しており、大学当局は即位式の間、全学あげて構内の警備をしていた。ところがその詰所にしていた部屋の木製の大火鉢が加熱して出火してしまったのである。これにより当時の総長および理事、監事は引責辞職。燃え残った有終館の駆体は撤去の予定であったが、当時隣の同志社女学校の建築を手がけていた武田五一が修理・保存を勧告、結局外壁の内部に15cmの鉄筋コンクリートの壁を作る方法で保存した。 有終館の名は図書館としての役目を終えた際に当時の総長であった海老名弾正が命名した。アメリカ合衆国コネティカット州ニューロンドンのハリス(JONATHAN N. HARRIS)の寄付によって建設された。設計者は英国王立建築家協会員のハンセル(ALEX N. HANSELL)。1890年の竣工で、イギリス積みの煉瓦建築。創建当初は屋上に天文台が設置されていたが、1891年に起きた濃尾地震により破損し、修復しても不安が残ることから僅か3年で撤去されている。1979年5月21日に重要文化財に指定された。以前は2階の一角に「Neesima room」と称する展示室があり、他は入試部の事務所などが使用してきたが、良心館の完成に伴う事務所の移転により2013年11月に全館が「ハリス理化学館同志社ギャラリー」という名称の展示館としてオープンした。ドイツのネオ・ゴシックを基調とする建築物で、「印象的な尖塔は同志社大学のシンボル的存在」と同志社大学関係者は考えている。27歳でこの世を去った息子(バイロン・ストーン・クラーク)のためにとB.W.クラーク夫妻より6000ドル寄付され建設された。そのため1階の壁面に「THE STUDY OF THE WORD OF GOD WAS DEAR TO HIM」(神の言葉の研究は彼にとって大切であった、の意)と刻まれている。1894年の開館当時はクラーク神学館と呼ばれ、神学教育・研究の中心として使用された。1979年5月に「設計図」、「新築仕様書」とともに重要文化財に指定された。2003年1月から2008年2月まで10億1760万円をかけ改修工事が行われた。この際、後世に改造された部分などは撤去され、当初の姿に復元された。2006年度に行われた同志社EVEにおいて、補修工事に使われた土居葺板に寄せ書きを行うイベントが開催された。現在でも教室があり、主に神学部の授業が行われる。2階にあるクラークチャペルは、休暇時期を除く行事等のない平日の昼休み時間帯に、入室・見学が可能となっている。D.C.グリーンが設計し、1884年に竣工。アメリカン・ゴシック調の瓦葺きの煉瓦造り。アメリカン・ボードの寄付によって建築。京都市内に現存する煉瓦建築の中では最古のもの。東側に向いた左右対称の建物である。1951年に同志社中学校の教室棟として増築された新彰栄館が、正面右側に接触していたため、左右対称のファサードが長く見られなくなっていたが、新彰栄館は2012年末に撤去されている。新彰栄館増築の際、接触部の窓を埋めたり、壁に穴を開けて連絡通路を作る等の改変が行われていたため、2013年から復元工事が行われ、2014年3月に完成した。同志社大学今出川キャンパスにある日本国政府によって登録された登録有形文化財は以下のとおりである。1931年11月29日定礎。1932年3月20日竣工。ニューイングランド・ジョージア様式で、左右対称の概観が特徴。2005年11月10日に登録有形文化財(建造物)に登録。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(W.M.Vories)。施工は清水組。学校の創設者である新島襄の母校、アーモスト大学の関係者の寄付によって建設された。1932年から2007年4月まで学生寮(アーモスト寮)として使用されていたが、2008年10月から2009年5月まで3億1800万円をかけ、外国人研究者用の宿泊施設へと改築された。その際に重要文化財を目指すため、基本的な構造は変化させず、内装や耐震化のみ手を加えられた。1920年図書館(2代目大学図書館)として竣工。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(W.M.Vories)。第二次大戦中、ラングドン・ウォーナー博士が米陸軍当局に提出した「爆撃してはならない日本の文化財目録」の中に入っていた。1973年12月 に現在の図書館(3代目大学図書館)の竣工により、「啓明館」と改称する。2007年7月31日に登録された。特徴的なファサードは、2012年竣工の良心館の外観にも取り入れられている。1915年図書館(2代目大学図書館)として竣工。設計はウィリアム・メレル・ヴォーリズ(W.M.Vories)。1973年12月 に現在の図書館(3代目大学図書館)の竣工により、「啓明館」と改称する。2007年7月31日に登録された。以前同志社大学の布哇寮であり、現在は同志社フレンドピースハウスとして活用されている。
出典:wikipedia
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