『プレイガイドジャーナル』は、1971年から1987年まで、日本の大阪で刊行された、関西圏の情報誌、及び、その雑誌を刊行していた出版社(プレイガイドジャーナル社)である。通称「プガジャ」。また、末期は雑誌名自身が『ぷがじゃ』となった。「日本で最初の情報誌」と言われ、その独特の誌面や主催イベントなどは、1970年代 - 1980年代の関西のサブカルチャーに大きな影響を与えた。演劇センター68/70(のちの劇団黒テント)の「翼を燃やす天使たちの舞踏」の大阪上演実行委員会のメンバー(村元武、山口由美子ら)が母体となり、1971年7月に創刊された。創刊にあたっては前年に神戸大学と関西大学の学生が刊行していた『月刊プレイガイド』を参考とした。また、『パリスコープ』『ロンドン・タイムアウト』等の世界の情報誌の日本版を、という意識もあったという。『プレイガイドジャーナル』は雑誌としては珍しい「B6判」で創刊された。創刊時のメンバーには舞台関係の人物が多かったが、林信夫、秦京子など読者の学生たちが編集部に出入りするようになり、彼等が編集部の中核を担うようになった。初期には『プガジャ』は本屋にはあまり置かれず、ライブハウスや喫茶店などに編集者たちが直接、配本していた(のちに、取次を通して書店販売もされるようになった)。音楽ライブ、演劇公演、映画上映、フリーマーケット、海外ツアーなどのイベントを、誌面とも連動しながら盛んに行った。また、「喫茶店特集」が好評だったため、単行本『青春街図』シリーズが企画された(のちの『ぴあMAP』の先駆)。三代目編集長の山口由美子が企画した、いしいひさいちの漫画単行本『バイトくん』(1977年刊行)はベストセラーとなった。1981年に就任した5代目編集長・村上知彦は、扱う情報量の増加などの理由により、1983年1月号から『プガジャ』のサイズを他の情報誌と同じB5判に変更した。また創刊以来すえおかれていた定価「100円」を「180円」に値上げした。イベントの開催はB6判時代に比べると減り、「雑誌自体の魅力」を主張していく編集方針となっていた。1984年に就任した6代目編集長・小堀純は、表紙イラストを南伸坊に変更する他、コラム担当にも積極的に東京のサブカル文化人の起用をはかり、さらにサブカル雑誌としての充実を図った。経営的には慢性的赤字であったため、創刊編集長で社長の村元武が継続に熱意を失い、1984年11月から会社の身売り先を探し始める。当初、プガジャの文化事業に理解を示していた近鉄や大阪ガスなども売却先として浮上したものの、紆余曲折の末1985年9月にエイエヌオフセット(学生援護会の子会社の印刷会社。『プガジャ』の印刷を担当していた)がプレイガイドジャーナル社を買収し、同年11月号から新体制となった。1986年4月号からは雑誌名を『ぷがじゃ』に変更するなど誌勢維持と経営改善に努めるものの、経営サイドと小堀編集長との意見が対立し、1987年12月号の刊行をもって編集部員は一斉に退社。その後、雑誌は誌名を変えて翌年9月号まで刊行された。他他他他他なお、「有文社」もプレイガイドジャーナルが設立した出版社。名古屋で同時期(1972年~1982年)に刊行されていた情報誌。誌名は同じであったが、本家との直接の関係はなかった。当初は『プレイガイドジャーナル名古屋』だったが、取次を通す際に当誌との混同を避ける為『名古屋プレイガイドジャーナル』に変更した。なお、第六代編集長の小堀純は『名古屋~』の出身で、同誌廃刊に伴いスカウトされる形で当誌に参加している。
出典:wikipedia
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