後藤 忠政(ごとう ただまさ、本名: 後藤 忠正=読み同じ、1942年9月16日 - )は、日本の元暴力団員。20世紀から21世紀の初頭に掛けて活動したヤクザ。暴力団・川内組若頭補佐兼静岡支部長を経て、暴力団・後藤組を結成、後に伊堂組舎弟となった。指定暴力団・山口組の幹部構成員として、五代目山口組若頭補佐、六代目山口組舎弟などを歴任したが、2008年をもって引退した。1942年(昭和17年)、東京府東京市荏原区に4人兄弟の末っ子として出生。祖父は富士川発電や伊豆箱根鉄道を興した実業家の後藤幸正であった。戦争の激化により、2歳の時に父の実家がある静岡県富士宮市に疎開して以降、同地で育った。暴力団・川内組の組員だった1969年、富士宮市に暴力団・後藤組を結成して組長となった。川内組組長・川内弘は、菅谷組組長であり三代目山口組若頭補佐であった菅谷政雄の舎弟であった。後藤組はその後、静岡県における山口組勢力拡大の嚆矢となったが、1977年、川内の破門・殺害によって川内組が事実上消滅したため、浜松市を拠点とする山口組系伊堂組(組長・伊堂敏雄)に舎弟として移籍した。1984年7月、竹中正久を組長とする四代目山口組が発足すると伊堂は引退、後藤は山口組直参に昇格した。後藤は武闘派として、同年に勃発した一和会との山一抗争で積極的に働いた他、渡辺芳則を組長とする五代目山口組の東京進出に際しては、その先駆けとなって勢力の拡大に寄与した。1992年には後藤組組員5人が、暴力団を描いた映画『ミンボーの女』の監督伊丹十三を襲撃した。2002年7月、山口組若頭補佐に就任した。2005年8月、六代目山口組の発足に伴い、同組舎弟に直った。日本航空(JAL)の個人筆頭株主でもあった。2008年10月、山口組から除籍処分を受けた。山口組の会合への欠席などが問題視されたためと見られている。これを機に引退した。2001年4月、肝臓が悪化したため、アメリカで肝臓移植を受けさせてもらうかわりに、連邦捜査局に山口組内部情報を米当局に教えると約束をし、弘道会の幹部らのリストや山口組の米国でのご用達の金融機関などを教えた。2001年7月にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院で肝臓移植手術を受け、その際同病院へ10万ドルを寄付。病院側が謝意を表明したプレートを院内に掲示したため、問題となり直後に撤去された。2003年11月ごろ、アメリカの捜査当局は、後藤からの情報を元に、五菱会の実質No.2だった梶山進の資金200万ドル(約2億円)を発見し、警察庁に連絡した。この資金は全額没収された。アメリカの捜査当局がスイスの捜査当局とも情報交換し、さらに50億円を没収した。山口組の損失が54億円。後藤組の損失は0であった。2006年5月8日、東京都渋谷区のビル所有権を菱和ライフクリエイト(現:クレアスライフ)社長西岡進らと共謀し不正変更した、電磁的公正証書原本不実記録の容疑で、組関係者などとともに警視庁に逮捕、勾留された。容疑は否認した。翌2007年6月14日、病気を理由に弁護人が勾留の執行停止を申し立て、保釈金7000万円を払い保釈されたが、2012年2月13日有罪が確定した。2007年6月12日までに警視庁北沢署巡査長のパソコンから情報が流出し、警察がグラビアアイドル出身の女優、レースクイーン出身のタレント、声優で歌手の女性の3人を、捜査・監視の対象である後藤の愛人として把握していることが発覚した。2008年10月、前月の後藤の誕生日を祝って開いたゴルフコンペに細川たかし、小林旭、角川博、松原のぶえ、中条きよし、須之内美帆子、益子梨恵らが参加していたことが報じられた。これを受けNHKが細川、小林、角川、松原、中条の5人について、数カ月間番組への出演を見合わせた。事態を重く見た山口組執行部は、病気を理由に本部の定例会を欠席しながらゴルフコンペを開いたとして、後藤を山口組から除籍し引退させた。2009年4月8日、神奈川県伊勢原市の天台宗の寺院・無常山浄発願寺で得度、法名・忠叡を名乗る。かねてからの念願だった映画作りで、地元で起こった事件だったために気にかけていた袴田事件を題材として企画した2010年公開の映画『BOX 袴田事件 命とは』に私費3億円を投じ、救援活動に取り組んだ。同年に自らの半生を語り下ろした自叙伝『憚りながら』(宝島社)を出版、後藤組と創価学会の関係について明らかにしたことなどが話題を呼び、ベストセラーになった。本書の印税は、2010年10月20日に「アンコール障害者協会」(Angkor Association for the Disabled=AAD')ならびにミャンマーのチャイカロット・パリヤティセンター&モゴック・ビパサーナ僧院に全額寄付された。2011年には新章「東日本大震災と日本人」を加えて文庫化。この文庫版の印税でボランティア組織を設立し、福島第一原子力発電所事故で陸の孤島と化した地域へ支援物質を運搬した。この支援活動には村井秀夫刺殺事件の実行犯だった徐裕行が副代表として参加している。その後、2011年頃よりカンボジアに移住し、プノンペンの高級マンションに居住。カンボジアでは養鶏場経営などの実業を手掛けるとともに学校建設などボランティア活動も行っており、2012年末にはカンボジア国籍を取得し、伯爵に相当する『オンニャー』の称号を授与されオンニャー忠叡を名乗る。カンボジア政府高官に人脈を築いて、国会議員を目指すことも考えているという。2016年3月下旬には検査入院のため日本に一時帰国したと報じられている。
出典:wikipedia
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