秋風(あきかぜ)は、日本海軍の駆逐艦。峯風型駆逐艦(一等駆逐艦)の9番艦である。艦名は立秋に秋の気配を感じさせる風を意味する。「秋風」は1919年(大正8年)5月24日、峯風型姉妹艦や樅型駆逐艦と共に命名された。同日附で一等駆逐艦に類別。本艦は三菱長崎造船所で建造。1920年(大正9年)6月7日に起工。同年12月14日に進水。1921年(大正10年)4月1日、竣工。横須賀鎮守府籍に編入。日中戦争(支那事変)に際して、1938年(昭和13年)以降は華中の沿岸作戦に参加。1940年(昭和15年)、峯風型4隻(羽風、秋風、太刀風、夕風)による第34駆逐隊新編にともない、「秋風」は舞鶴鎮守府に転籍した。同年11月15日より第34駆逐隊は空母2隻(鳳翔、龍驤)と共に第一航空艦隊・第三航空戦隊(司令官角田覚治少将)を編制する。4月10日、「夕風」は第34駆逐隊から除籍、34駆は峯風型3隻(羽風、秋風、太刀風)となった。同日附で第34駆逐隊は空母「赤城、加賀」と第一航空戦隊(司令官南雲忠一中将)を編制した。5月1日、第34駆逐隊は第二遣支艦隊に編入され、しばらく中国方面で活動した。9月15日、第34駆逐隊は第十一航空艦隊(司令長官塚原二四三中将)に編入された。第十一航空艦隊は南方作戦で重要な役割を担っており、「秋風」も司令部や基地要員の移動のため南方へむかった。太平洋戦争(大東亜戦争)緒戦における第34駆逐隊、南方で輸送、海上護衛作戦に参加。この頃になると峯風型は老朽化が進み、各艦とも最大発揮速力32ノット前後まで落ち込んでいた。1942年(昭和17年)8月7日以降ガダルカナル島の戦いが始まると、「秋風」も各方面への強行輸送任務(鼠輸送)に投入された。第一次ソロモン海戦では水上機母艦「秋津洲」と共に日本軍基地航空隊(十一航空艦隊)不時着機の救助任務に従事している。9月1日、ブカ島近海で空襲を受け小破。10月25日、空襲を受け中破。本艦は損傷を受けながら活動を続けた。1942年(昭和17年)12月24日、日本海軍は南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)を編制するが、同艦隊司令部は第十一航空艦隊と兼務であり、「秋風」以下第34駆逐隊もひきつづき南東方面艦隊/第十一航空艦隊直属隊として行動した。1943年(昭和18年)1月23日、第34駆逐隊僚艦「羽風」が米潜水艦ガードフィッシュに撃沈され、同隊は2隻編制(秋風、太刀風)となった。3月14日、「秋風」はニューアイルランド島要港カビエンを出発、15日にカイリル島、16日にロレンガンに立ち寄り、17日カビエン着、18日迄にはラバウルへ戻った。この航海中、下記の虐殺事件が発生した。4月1日、第34駆逐隊は解隊され、「秋風」は第十一航空艦隊直属となった。日本軍がニュージョージア島の戦いやブーゲンビル島の戦いで米軍に圧倒される中、「秋風」は最前線で行動を続けた。7月27-28日にはニューブリテン島グロスター岬で駆逐艦2隻(睦月型駆逐艦《三日月》、初春型駆逐艦《有明》)が座礁と空襲により沈没。救助のため「秋風」が派遣され、2隻の乗組員を救助した。8月上旬、ラバウル附近で行動中に空襲を受け大破。佐部鶴吉少佐(秋風艦長)も戦死した。内地に帰投して修理後、ふたたび南東方面の最前線に進出する。1944年(昭和19年)2月中旬、中部太平洋における日本海軍の最大拠点トラック泊地は、米軍機動部隊艦載機によるトラック島空襲を受け、停泊していた艦艇や地上基地航空隊は大損害を蒙る(峯風型では太刀風が沈没)。米軍機動部隊が去ったあと損傷艦を退避させることになり、駆逐艦「秋風、藤波、春雨(途中合流)」は工作艦「明石」、標的艦「波勝」を護衛してパラオ泊地へむかった。5月1日、「秋風」(舞鶴鎮守府籍)と「松風」(横須賀鎮守府籍)は佐世保鎮守府に転籍した。同時に卯月型駆逐艦2隻(卯月、夕月)の第30駆逐隊に編入され、同隊は駆逐艦4隻(卯月、夕月、秋風、松風)となった。だが6月9日に「松風」は米潜水艦に撃沈される。そこで日本海軍は8月20日附で第22駆逐隊を解隊し、同隊所属だった駆逐艦2隻(皐月、夕凪)を第30駆逐隊に編入する。同日附で、第30駆逐隊は第三十一戦隊に編入される。それから間もない8月25日、「夕凪」は米潜水艦に撃沈され、9月21日には「皐月」がマニラで空襲を受け沈没した。第30駆逐隊は駆逐艦3隻(卯月、夕月、秋風)の3隻となった。同年10月30-31日、「秋風」はフィリピン方面への『緊急輸送作戦』に従事する隼鷹型航空母艦1番艦「隼鷹」を護衛することになった。「隼鷹」は空母でありながら航空機をまったく搭載せず、その格納庫に戦艦「大和」を含む第二艦隊(栗田艦隊)用の砲弾、第三十一根拠地隊向けの砲弾、第1挺進集団の一部、第七震洋隊の水上特攻艇「震洋」50隻と基地隊員130名を搭載したという。輸送部隊は隼鷹艦長を指揮官とし、軍艦2隻(空母《隼鷹》、軽巡洋艦《木曾》)、第30駆逐隊(司令澤村成二大佐:夕月、卯月、秋風)で編制されている。しかし艦隊の動向は米軍に察知されており、米潜水艦複数(ジャラオ、アトゥル、ピンタド等)からなるウルフパックが「隼鷹」を狙っていた。台湾・馬公市に立ち寄ったのちブルネイに向け移動中の11月3日夜、米潜水艦ピンタド("USS Pintado, SS-387")が「隼鷹」に対して魚雷6本を発射、これが「秋風」に命中し22時53分、大爆発により「秋風」の艦体は分断され艦尾は22時58分に沈没した。「夕月」が救援にあたるが、秋風乗組員は全員行方不明(戦死認定)となった。ピンタドは「卯月、夕月」の爆雷攻撃を受けて退避し、「隼鷹」は難を逃れた。「秋風」の沈没地点はルソン島サンフェルナンド西方。「秋風」が「隼鷹」の楯となったのか、「隼鷹」を狙って外れた魚雷が偶然「秋風」に命中したのかは定かではない。1945年(昭和20年)1月10日、「秋風」は峯風型駆逐艦、帝国駆逐艦籍のそれぞれから除籍された。また多号作戦で第30駆逐隊残存の2隻(夕月、卯月)も沈没、同日附で第30駆逐隊も解隊された。現在、「秋風」の慰霊碑は呉海軍墓地にあり、隣には空母「隼鷹」の慰霊碑が建立されている。1943年(昭和18年)3月18日、南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下で行動中、ニューギニアの戦いにおいて日本軍が進出したニューギニア島東部(東部ニューギニア)から、一大拠点であるニューブリテン島ラバウルへ向け現地の在住民間人(女子供を含む各国の民間人)を「秋風」にて移送中、秋風艦上において乗員がその全員を処刑・虐殺した戦争犯罪。太平洋戦争における日本海軍・アメリカ海軍(連合軍)は、双方とも洋上における虐殺事件を多数引き起こしているが、「秋風」艦上において処刑された被害者は漂流中の軍人や民間人ではなく、かつ子供をも含むためそれらとは性格を異にする。経過は以下のとおり。北東部ニューギニアは古くはドイツ植民地帝国の植民地であり(ドイツ領ニューギニア、第一次世界大戦によるドイツ敗戦以降は同島南東部を領有していたオーストラリアの委任統治領となる)、現地には宣教師や農園主等としてドイツ人ら欧米各国人が入植していた。当時、ラバウル方面の作戦全般を指揮していた南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)は、東部ニューギニア・中部ソロモンの防備をかためるため航空基地整備を企図しており、3月9日に「南東方面基地設営計画」、14日に「南東方面基地整備計画」を発令し、4月15日を目標に21ヶ所の陸上基地(新設10)・12ヶ所の水上機基地(新設6)を整備しようとしていた。被害者の内訳は以下の通り。戦後、連合国は本事件を調査。「秋風」が所属していた当時の第八艦隊司令長官三川軍一海軍中将および、参謀長大西新蔵海軍少将をB級戦犯に指名、1947年(昭和22年)1月に拘束した。事件当時の秋風艦長である佐部鶴吉海軍少佐以下主要士官は1943年(昭和18年)8月に秋風大破時に戦死、また「秋風」自体も乗員諸共に戦没(事件当時の秋風乗組員は転勤のため生存者がいる)、裁判の焦点は事件当時の「秋風」所属および命令元となった。裁判において第二復員省および草鹿任一(当時の南東方面艦隊司令長官)や第八艦隊関係者は事件当時の「秋風」が第八艦隊(三川長官、大西参謀長)の指揮下にあったと主張。これに対し三川・大西の両名は、事件当時の「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将)の指揮下、南東方面艦隊の命令を受けて行動していたと反論する(両名の主張が正しかった場合、草鹿任一元中将が秋風事件の戦犯となる)。当時の軍隊区分において、「秋風」は南東方面艦隊/第十一航空艦隊(第八艦隊の上部組織)附属であるため、第八艦隊とは別の命令系統に所属していた。また1943年3月~4月のラバウル方面は、第81号作戦(ビスマルク海海戦)や『い号作戦』実施のため、連合艦隊、南東方面艦隊(第十一航空艦隊)、第三艦隊、第八艦隊、日本陸軍の指揮系統が複雑に絡み合っていた。1948年(昭和23年)10月上旬、小口茂秋風機関長や秋風乗組員等が被告側の証人となる。10月15日、土肥一夫(海軍兵学校54期)は南東方面艦隊の戦時日誌を裁判に提出。これにより虐殺事件時の「秋風」が南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将。第十一航空艦隊司令長官兼務)の命令を受けていたことが明らかになる。同年10月18日、三川と大西の2名は起訴却下となった。大西は、冷戦によりアメリカの対日政策がかわり、草鹿が起訴される恐れがなくなったことが、第二復員省による南東方面艦隊の戦時日誌提出につながったと推測している。なお秋風事件当時の連合艦隊参謀長宇垣纏少将(終戦時に特攻で死亡)が記録していた陣中日誌「戦藻録」は太平洋戦争の第一級資料だが、同日誌は黒島亀人(当時連合艦隊先任参謀)が電車に置き忘れたことにより、1943年(昭和18年)1月から3月分(秋風事件前後)の日誌が欠如している。軍事評論家の伊藤正徳は著書『連合艦隊の栄光』の中で、以下のようなエピソードを紹介している。アメリカ軍はソロモン諸島における日本軍(航空隊、艦隊)の動向をいち早く察知するため、多数のコースト・ウォッチャーズ(沿岸監視員)を配置して諜報活動を行っていた。沿岸監視員は軍人だけでなく民間人も多く、無線機でアメリカ軍に連絡をとっていた。ソロモン作戦の後期、日本軍は電波探知により諜報網を検挙、スパイとみなしたドイツ人、オーストラリア人、豪州人等、現地人、すくなくとも60名以上を駆逐艦の甲板上で処刑したという。しかし、伊藤はこの駆逐艦の艦名については言及しておらず、また処刑された民間人集団がスパイ・沿岸監視員だったという証拠もないが、スパイではなかったとする証拠もない。なお彼らの子供も処刑されている。
出典:wikipedia
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