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禅瀧寺

禅瀧寺(ぜんりゅうじ)は兵庫県加東市にある高野山真言宗の仏教寺院。山号は神谷山(こうだにさん)と称し、本尊は薬師如来(秘仏)。開祖は法道仙人と伝わる。大化年中、法道仙人の開基で、その後、僧行基が訪れ、堂宇を建立して薬師如来、日光菩薩、月光菩薩の像を刻み本尊としたのが始まりとされる。また寺名の由来については、青山四方に横たわった両巖の間に懸泉を見つけた法道仙人が思わずもらした「禅瀧なり……」(静寂な瀧)という言葉とされる。1601年(慶長6年)、時の領主池田輝政から境内高27石の寄進を受け、徳川三代将軍家光の時に改めて27石の御朱印寺となっている。当時は堂塔院坊が50有余もあったとされるが、その後度々の兵火に遭って次第に減少し、現在は塔頭の金蔵院と持明院の二ヶ寺を残すのみとなっている。明治維新直前まではもう一ヶ寺不動院が残っており、また安楽坊、竹中坊等の地名や、宝性坊、般若院等の記録も残っている。なお、現在の本堂については、元和6年(1620年)8月27日付けの工事記録があり、また天和2年(1682年)から7年がかりで本堂を再建し、元禄元年(1688年)に完成させたとする記録が保存されている。本尊を納めた宮殿両脇の2本の丸柱は鎌倉時代のものと鑑定されている。明治の中期頃には真言宗播磨中学林が設けられ、多くの修学僧が収容されていた。その中からは高野山金剛峰寺の座主、管長になった和田性海や、京都大覚寺門跡を務めた谷内清巖ら有力な僧を輩出した。学林を起こし、学頭を務め瀧見常(17代目持明院住職) は、京都東寺(教王護国寺)の定額僧にまで進んだ人物で、朋友の仁和寺門跡土宜法龍撰、谷内清巖筆の頌徳碑がある。また、明治6年神谷村と国依村が合併した際に将来の繁栄を願って「栄枝(サカエ)」と命名したのもこの人である。本堂、不動堂(護摩堂)、経蔵、がある。以前は鐘楼堂もあったが、太平洋戦争で鐘楼を供出し、その後台風で鐘楼堂も倒壊し現存はしていない。他に、不動堂裏の細い小道を登ると溜池のほとりに大きな弥勒菩薩の石像があり、そこを起点として西国三十三所、四国八十八箇所を模した石仏霊場の巡拝祠が境内の山中に点在しており、道中には弁天堂や、寺名の由来になった懸泉「禅瀧」等がある。なお写し霊場の石仏に頭部が無い物が多いのは、明治ごろの博打うちが験担ぎに持ち去ったためといわれる。塔頭は金蔵院と持明院の2ヶ寺が現存する。本堂より南に200メートル程の所に山門の仁王門がある。また現在厚利にある山王神社はもともとは本道裏山西国三十三所のあるあたりに神谷山の鎮守神として祭られていた。安政元年に小沢村、辻兵七清純が独費で建立寄進した仁王門。元々は現山門よりも南へ300メートル程の所にあったとされる。禅瀧寺の名前の由来となったと言われる瀧「禅瀧」は境内山中にある。瀧と言っているが、激しく水の落ちるようなものではなく水がポツリポツリと滴る静かな瀧である。播磨八薬師霊場 第六番札所(まんじゅしゃげの寺)加東四国八十八カ所霊場 第73番札所禅瀧寺のご詠歌は「もろびとの 心をいやす 禅瀧寺 るりの光を 与えましませ」である。

出典:wikipedia

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