柴田 剛中(しばた たけなか、文政6年1月17日(1823年2月27日)-明治10年(1877年)8月24日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府旗本・外国奉行。柴田良通の長男。通称は貞太郎・日向守。雅号は恬斎。江戸小石川の生まれ。10歳のときに父が急逝する。天保13年(1842年)に徒目付となる。嘉永6年(1853年)に評定所配属となり、安政元年(1854年)に留役助、翌年には留役になった。安政5年(1858年)8月に外国奉行支配組頭となり100俵を給され、神奈川開港問題の交渉にあたって、横浜開港を実現させた。その後も外国人殺傷問題や通貨問題などで欧米外交団との交渉の窓口となり、文久元年(1861年)には100俵の加増を受ける。文久2年(1862年)12月に幕府が派遣した遣欧使節(文久遣欧使節)の組頭としてヨーロッパに渡り、開港開市の延期交渉にあたった。翌年12月に帰国後直ちに外国奉行並に任じられ、翌年11月に外国奉行として箱館派遣が決定され、翌月には諸大夫に任じられた。慶応元年(1865年)閏5月に製鉄所建設及び軍制調査の正使として再度フランス・イギリスに派遣された。7月にフランスに入った柴田らはフランスとの製鉄所建設と軍事教練に必要な協定を締結することに成功するが、薩摩藩との関係を強めつつあったイギリスとの交渉には成功しなかった。11月にフランスを出発し、翌年1月に帰国した。慶応3年(1867年)5月13日には大坂町奉行、7月9日には兵庫奉行を兼務して、当時八部郡二茶屋村にあった善福寺を宿所とし、もっぱら外国人居留地問題などの外交問題を担当した。慶応4年(明治元年/1868年)の鳥羽・伏見の戦いでの幕府軍の敗北と徳川慶喜の江戸城引揚に際して運上所施設の明け渡しなど対外的な事後処理を終えた後の1月17日に外国奉行以下を罷免され、隠居願を提出、同年4月に認められて所領のある上総国山辺郡富田幸谷村に退いた。その後もその見識と人物を評価されて明治政府より出仕要請が出されるが、これを辞退する。ただし、政府に請われて上京して外交問題に関する諮問に応じたという。外国奉行の時代は現在の国会議事堂前庭辺りに屋敷があった。井伊直弼の屋敷の五軒隣。引退後、東京では神田淡路町に屋敷を構え、こちらで亡くなっている。墓は台東区下谷の随徳寺にあったが、関東大震災で損壊し、現在は過去帳のみにその名前が記載されている。柴田家は三河の忍を配下に持つ家系で、家訓は「生延びよ。」イギリスの学者ストームによると柴田剛中はグラバーに対抗するために隠密を暗躍させており、それらの中には廻国者集団の「柴田連中」などがあった。
出典:wikipedia
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