リーマン・ブラザーズ()は、かつてアメリカのニューヨークに本社を置いていた大手投資銀行グループ。"Lehman" の英語での読み方は通常「レイマン」だが、この場合は「リーマン」と発音される。ドイツ南部から移住したアシュケナジムユダヤ系移民、ヘンリー、エマニュエル、マイヤーのリーマン兄弟によって1850年に創立され、米国第4位の規模を持つ巨大証券会社・名門投資銀行の一つとされていたが、2008年9月15日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し倒産した。世界金融危機顕在化の引き金となり、世界経済に大きな影響を与えた(リーマン・ショック、後述)。倒産するまでAAAの格付けを受け、世界経済の中枢とも言える存在であった。1844年、23歳のヘンリー・リーマンはバイエルン王国のリムパーという町からアメリカに移民し、アラバマ州モンゴメリーで日用品店「H.リーマン商店」を開いた。弟のエマニュエルとメイヤーが相次ぎ移民して来たために、1850年に店名をリーマン兄弟商会(リーマン・ブラザーズ)に変更する。当時、アメリカ合衆国南部では綿花生産が盛んで、兄弟は客から支払いで現金の代わりに綿花の現物を受け入れたことをきっかけに、綿花取引に経営の重点を移し、当時綿花取引の中心となりつつあったニューヨークにも事務所を構えた。1855年に長兄ヘンリーが死去。残ったエマニュエルとメイヤーが経営を引き継ぎ、南北戦争で南部連合が敗戦した後は、アラバマ州の復興を資金面で支えた。間もなく本部をニューヨークに移す。1870年にはニューヨーク綿花取引所が開設され、リーマンもこれに協力、エマニュエルは同取引所の取締役を1884年まで務めた。この頃、リーマンは鉄道建設債券市場に参入し、後に主力業務となった金融アドバイザリーを開始した。1887年にはニューヨーク証券取引所の会員になる。1899年には、同社初となる社債の引き受け(International Steam Pump Company)を行った。創業者エマニュエルの息子で2代目社長のフィリップは、ゴールドマン・サックス(GS)との提携を進め、GSとともに20年間で100社以上の社債を引き受けた。フィリップは1925年に退任し、イェール大学卒の息子が跡を継いだ。世界恐慌を受けて、一時経営危機に陥ったものの、個人投資家や合併を積極的に支援することでこれを乗り切った。リーマンのベンチャーキャピタル業務の原点である。1929年、リーマン・ブラザーズから投資業務を分社化し、リーマン・コーポレーション()を設立した。もっとも、経営陣の多くはリーマン・ブラザーズと兼務していた。数年後、リーマン社史上の大きな転換点となる、資産管理業務に参入する。社長のロバートは、リーマンの更なる成長と拡大を目指すにあたり、それまで続いてきた同族経営の体質を是正しようとした。1924年には、リーマン一族以外では初となる共同経営者ジョン・M・ハンコックを招き入れ、1927年にはモンロー・C・ガットマンとポール・メイザーが加わった。1969年にロバートが死去して以降は、リーマン一族が経営を支配することは無くなった。ところがこの結果、リーマンは社の大きな求心力を失ってしまうこととなる。この事態の打開のため、1973年には、ベル&ハウエル社のCEOピーター・ピーターソンが経営に参加した。会長兼CEOに就任したピーターソンの主導のもと、アブラハム&カンパニーを1975年に買収。1977年には、当時経営が低迷していたクーン・ローブと合併し、リーマン・ブラザーズ・クーン・ローブ()へ改称。ピーターソンは、多額の赤字経営からリーマンを救済し、投資銀行の中でも特に収益率の高い、記録的な黒字決算を5年連続で実現させた。こうして会社全体としては成長を続けたものの、花形である投資銀行業務を担当する社員と、その一方で実際の収益拡大にはより貢献していたトレーダー社員との間で確執が生じるようになった。このためピーターソンは1983年、社長兼COOでトレーダー出身のルイス・グラックスマンを共同CEOに就任させた。グラックスマンは賞与制度などの改革により、競争的な社風を築こうと試みたが、かえって社員の精神的ストレスの原因を作ることとなった。経営方針を巡り2人のCEOも対立するようになり、ピーターソンが追い出される形で、グラックスマンが単独CEOとなった。こうした社内の混乱を嫌った社員はリーマンを去っていき、リーマンは崩壊の危機に瀕する。1984年4月、グラックスマンはリーマンの身売りを迫られ、同社をアメリカン・エキスプレスに3億6,000万ドルで売却した。持株会社シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレス()を設立したのち、1988年、シアーソン・リーマン・アメリカン・エキスプレスはさらにE・F・ハットン&カンパニーを吸収、シアーソン・リーマン・ハットン()となった。1993年に就任した新CEOハーベイ・ゴルブのもと、アメリカン・エキスプレスは事業の集中と選択を進め、リテール分野と資産管理業務をプライメリカに売却。1994年、さらにプライメリカが同事業を分離し、リーマン・ブラザーズ・ホールディングス()として株式をニューヨーク証券取引所に再上場させた。この再上場の後も、たびたび買収の対象として噂されたが、リーマン・ブラザーズはこれを重ねて否定。実際、業績の推移は順調で、収益を拡大させていた。しかし投資銀行業界の中では比較的弱体であったことへの危機感は強く、1999年には事態の打開策として危険性の高いサブプライム・ローンの証券化をいち早く推進するというハイリスク・ハイリターンの方針を打ち出した。これがアメリカの低金利政策による住宅バブルの到来と軌を一にし、業績の拡大に成功する。2001年9月11日、アメリカ同時多発テロ事件での世界貿易センタービル崩壊により、隣接する世界金融センタービルに入居していたリーマン・ブラザーズも影響を受ける。社員1名が死亡し、瓦礫でビルは使用不能。リーマン・ブラザーズは事件後48時間で、インターネットの不動産サイトでニュージャージー州の施設を購入。間に合わせのトレーディングルームが設置され、6,500名の社員が移動した。9月17日にニューヨーク証券取引所が再開されると、リーマン・ブラザーズはすぐに取引に復帰し、損失を最小限に抑えた。その後数ヶ月をかけて、拠点をニューヨークに復帰させるも、未だ臨時であり、40以上の別々の建物に分かれて業務を行っていた。特に、投資銀行部門はシェラトン・マンハッタン・ホテルに入居し、1階のラウンジ、レストランから665の全客室までを改造して利用していた。フレックスタイム制の導入やVPNの活用など、新しい試みも見られた。10月にはマンハッタンのミッドタウン(745 Seventh Avenue, New York)にある竣工間も無い32階建てのビルを、ライバルのモルガン・スタンレーから7億ドルで買収。モルガン・スタンレーは2ブロック離れたブロードウェイに移転した。リーマン・ブラザーズが以前の世界金融センターやロウアー・マンハッタンに戻らなかったことには批判もあったが、リーマン・ブラザーズ自身はニューヨークに拠点を残すことに腐心していた。新拠点は同社にとって理想的な環境であり、モルガン・スタンレー側も売却先を積極的に求めていた。また、2002年5月の世界金融センター再開まで待っていられなかったということもある。世界金融センターに残った企業としては、ドイツ銀行、ゴールドマン・サックス、メリルリンチなどがある。アジア方面に対する積極的な投資も特徴であった。日本との関係で有名なことは、古くは、リーマン・ブラザーズに統合される前のクーン・ローブが日露戦争の戦費調達のための日本国債を引き受けたことである。近年では、ライブドアへの投資(転換社債型新株予約権付社債)である。日本でのオフィスは東京・六本木ヒルズの29~32階にあり、アジア太平洋地域の統括本部でもある。2005年にはアジア(特に中国市場)の高成長と住宅バブルの昂進に後押しされ、ゴールドマン・サックス、メリルリンチといった強豪を抑えて投資銀行における最大手に躍進することとなった。サブプライムローンの高いリスクを背負うことで事業を拡大させたリーマンであったが、それに潜在していたリスクは最終的にはリーマンそのものを破滅させる原因ともなった。住宅バブルが崩壊し、ローンの焦げ付きが深刻化したのである。2008年3月に大手証券会社で財務基盤に問題はないと繰り返し発表してきたベアー・スターンズが事実上破綻(JPモルガン・チェースによる救済買収)した際に、株価が2日間で一時54%以上暴落した。財務基盤が盤石であったはずのリーマン・ブラザーズの流動性も心配される事態とまでなったが、その後、FRBによる証券会社への窓口貸出アクセス等の報道により株価は落着きを取り戻したかに見えた。しかし、サブプライムローン(サブプライム住宅ローン危機)問題での損失処理を要因として、同年9月には6〜8月期の純損失が39億ドルに上り、赤字決算となる見通しを公表。発表直後に株価は4ドル台にまで急落した。最終的にリーマンは負債総額にして約64兆円という史上最大の倒産劇へと至り、リーマン・ショックとして世界的な金融危機を招く事になる。リーマン破綻直前、アメリカ合衆国財務省やFRBの仲介の下でHSBCホールディングスや韓国産業銀行など複数の金融機関と売却の交渉を行っていた。日本のメガバンク数行も参加したが、後の報道であまりに巨額で不透明な損失が見込まれるため見送ったと言われている。最終的に残ったのはバンク・オブ・アメリカ、メリルリンチ、バークレイズであったが、アメリカ政府が公的資金の注入を拒否していた事から交渉不調に終わるに至った。しかし交渉以前に、損失拡大に苦しむメリルリンチはバンク・オブ・アメリカへの買収打診と決定がなされ、バークレイズも巨額の損失を抱え、すでにリーマンブラザーズを買収する余力などどこも存在していなかったという。2008年9月3日に韓国政府筋の韓国産業銀行(KDB)がリーマン株のうち25%を5-6兆ウォン(約5200-6300億円)で取得する事を明らかにしていたが、2008年9月10日になって一転、KDB側が出資協議を打ち切り、これに伴いリーマン株の売りが増大し、45%安を記録した。そして最終的には、同年9月15日に連邦倒産法第11章(日本の民事再生法に相当)の適用を連邦裁判所に申請し破綻した。連邦倒産法第11章の申請直前、CEOリチャード・ファルドは個人で保有するリーマン株をすべて売却している。負債総額は6,130億ドル(当時の日本円で約64兆5000億円)と米国史上最大の倒産となった。その後、ベアー・スターンズの経営危機・フレディマックとファニーメイの実質的破綻を含めた金融危機に対処するため、政府は緊急経済安定化法をまとめ、29日に下院で採決したが、伝統的な「自己責任」の価値観と、事の重大性を十分に認識していなかった議員の存在により否決され、世界中の投資家を失望させた。事実、この日のダウ平均株価が終値で777ドル安を記録し、算出開始以来最大の下げ幅を記録。そして全世界の株式市場の株価を瞬時に暴落させた。北米地域等は、バークレイズがその事業を買収した。日本では程なくして、日本の債権者や顧客の損害を抑制するための措置を行った。日本の金融庁は、日本法人であるリーマン・ブラザーズ証券株式会社に対して資産の国内保有命令と9月26日までの業務停止命令を出した。これをうけて、東京証券取引所、大阪証券取引所とジャスダックは、9月16日の取引開始前に同社の取引資格停止の措置をとった。同日、同社も東京地裁へ民事再生法の適用を申請した。日本法人の負債総額は3兆4000億円で、協栄生命保険に次ぐ日本戦後2番目の大型倒産となった。日本法人など、韓国を除くアジア地域、欧州地域及び中東地域は野村ホールディングスが買収に合意し、アジア部門を米ドルで2億2500万ドル、欧州部門はわずか2ドルで買収したが、人件費負担など買収後の対応に巨額の資金を要し、海外事業部門は野村の経営の重荷となっていった。10月10日、国際スワップデリバティブ協会(ISDA)は、リーマンのクレジット・デフォルト・スワップ(CDS)の清算価値が入札の結果8.625%に決定したことを発表した。市場の推計ではリーマン関連のCDSの契約残高(想定元本)は約4000億ドルといわれており、この91.375%(約3,655億ドル)が損失となり、CDSを引き受けた金融機関などが損失をかぶることになった(ただし相殺分を考慮すると数分の一になる)。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。