ケヴィン・アントニオ・ジョエル・ジスラン・ミララス・イ・カスティージョ(Kevin Antonio Joel Gislain Mirallas y Castillo, 1987年10月5日 - )は、ベルギー・リエージュ州リエージュ出身の同国代表サッカー選手。プレミアリーグのエヴァートンFC所属。ポジションはフォワード (WG、CF) 、ミッドフィールダー (SMF) 。2003年8月に地元のスタンダール・リエージュの下部組織からフランス1部のLOSCリール・メトロポールへ渡ったミララスは、その後に加入してきたエデン・アザールを始めとした同胞数名と下部組織で研鑽を積み、2005年5月7日のパリ・サンジェルマンFC戦 (1-0) で82分からリーグ初出場を飾ると、僅か3分後に初得点に決勝点を挙げ、見事クロード・ピュエル監督の期待に応えた。2006年5月12日には、チームと2009年6月までの初プロ契約を締結した。その後、ファンからクリスティアーノ・ロナウドになぞらえて称賛される程の成長を見せていくと、リールでの最終年となった2007-08シーズン終盤戦の4月の間にASナンシー戦(1得点)を皮切りにオリンピック・マルセイユ戦(2得点)、トゥールーズFC戦(2得点)の3試合で5得点を挙げ、同月のリーグ全選手中で最多得点を記録した選手となる圧巻のパフォーマンスを見せ、パトリック・クライファート、ニコラス・フォーヴェルグ () といったストライカー陣の不振が続く中で19歳の若手ながら一人気を吐いた。リールの未来と期待がかかるミララスに対し、当然のように国内外の数クラブが注目を集まったが、本人は契約延長を望んでおり、シーズン終了後に契約交渉を開始した。しかし、数度交渉するもなかなか納得が出来ずにいる中で同時期に同国1部のASサンテティエンヌから接触が図られ、会談を持った際に会長や監督の言葉に動かされた結果、7月26日に同クラブと4年契約で個人合意し、9月1日にクラブ間合意に達して正式に入団が決定した。サンテティエンヌでは、リール時代のセンターフォワードとは違ってアラン・ペラン監督の下で主に右サイドで起用され、2009年2月1日のオリンピック・リヨンとのデュルビ・デュ・ローヌという重要な試合で初得点を挙げる場面を見せたものの、全体的、特に2009-10シーズンは23試合無得点と移籍金400万ユーロに見合う活躍は出来ず、2010年6月18日にギリシャ1部のオリンピアコスFCへ1シーズン貸し出されることとなった。なお、同契約には250万ユーロでの買い取りオプションが付随している。オリンピアコスでは、KSベサ・カヴァヤとのUEFAヨーロッパリーグ 2010-11予選2回戦で初出場を飾り、10月2日の戦 (3-1) で初得点及び2得点目を挙げて以降で主力に定着して得点を量産する活躍から、同シーズン冬の移籍市場最終日である2011年1月31日にオプションが行使されて完全移籍を果たし、最終的に加入1季目で得点王のジブリル・シセに次ぐ14得点を記録した。翌2011-12シーズンは、敵地での戦 (4-0) でハットトリック、アステラス・トリポリFC戦 (7-2) で4得点を挙げる等、左サイドやセカンドトップを務めているにもかかわらず、昨季以上に得点力に磨きをかけ、チームをリーグ戦とカップ戦の2冠達成へと導いた。個人としては、25試合20得点で得点王に輝くと共にギリシャサッカー選手連合 (PSAP) が選出するで年間最優秀選手に選出されている。2012年8月19日に移籍金600万ポンドでイングランド1部のエヴァートンFCと4年契約を締結する。なお、その際に同国1部のアーセナルFCからオファーがあり交渉したものの、より多くの出場機会や同胞マルアン・フェライニの存在からエヴァートンを選択したとクラブの公式チャンネルで明かした。後半から途中出場でデビューを飾った8月25日のヴィラ・パークでのアストン・ヴィラFC戦での得点はオフサイドとなって初得点を逃したものの、それから4日後のレイトン・オリエントFCとのフットボールリーグカップ2回戦 (5-0) で初先発すると、2得点2アシストの活躍を見せた。9月22日の敵地でのスウォンジ・シティAFC戦 (3-0) では、カウンター攻撃からのシュートを相手GKミシェル・フォルムに一旦弾かれてゴールバーに防がれるも、こぼれ球に詰めより頭によってリーグ初得点を挙げた。その後、2012年11月10日のサンダーランドAFC戦中にハムストリングを負傷した影響から出場機会が限られ、翌12月の試合はトッテナム・ホットスパーFC戦で途中出場したのみと苦しい時期を過ごしたが、2013年2月26日のオールダム・アスレティックAFCとのFAカップ5回戦 (3-1) で下位リーグが相手ながらも得点を挙げ、続くリーグ戦の方でも3月2日のレディングFC相手に得点を挙げて復調の兆しを見せる。3月30日のストーク・シティFC戦では、攻め込まれる中で味方GKティム・ハワードが弾いたこぼれ球をハーフウェイライン上で拾うと同時にスティーヴン・エンゾンジ () を躱して攻勢に転じると、相手陣内に残っていたジェフ・キャメロンをドリブルで突破し、アスミル・ベゴヴィッチの守るゴールへ冷静にシュートを決めた。その後、5月12日のウェストハム・ユナイテッドFC戦で移籍後初複数得点を挙げ、長年チームを指揮してきたデイヴィッド・モイーズ監督の本拠地での最終戦に華を添えた。世代別代表としては、U-16代表から様々な年代を経験し、U-21代表では中心選手としてチームをUEFA U-21欧州選手権2007準決勝進出及び北京オリンピック出場権獲得に貢献した。その北京オリンピックでは、U-23中国戦とU-23イタリア戦でそれぞれ得点を挙げている。2007年8月12日にブリュッセルでのセルビア戦 (3-2) でA代表初出場を飾ると共に初得点を挙げた。クラブで鼠径部を負傷して終盤戦を欠場していたことから、2014 FIFAワールドカップ出場が危ぶまれていたものの、5月13日にマルク・ヴィルモッツ監督の下でメンバー入りを果たした。
出典:wikipedia
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