アーサー・マッカーサー・ジュニア(Arthur MacArthur, Jr.、1845年6月2日 - 1912年9月5日)は、アメリカ陸軍の軍人で、一兵卒から中将にまでなった人物である。父は第4代ウィスコンシン州知事の。妻のメアリー・ピンクニー・ハーディ・マッカーサーとの間に5人の子供がおり、長男のアーサー・マッカーサー3世は海軍軍人、三男のダグラス・マッカーサーは後に陸軍元帥となる。長男の息子に駐日アメリカ大使のダグラス・マッカーサー2世がいる。南北戦争が始まると、第24ウィスコンシン義勇歩兵連隊に参加した。チカマウガの戦い、ストーンズリバーの戦い、第三次チャタヌーガの戦い、アトランタ方面作戦、第二次フランクリンの戦いに参加した功績により、わずか19歳で名誉大佐の地位を与えられ、少年大佐(The Boy Colonel)と呼ばれて有名になった。これらの功績により、1890年に名誉勲章を授与された。第三次チャタヌーガの戦いでのマッカーサーの活躍を歌った「オー・ウィンシスコン」という歌はウィスコンシン州の州歌になっており、ウィスコンシン大学マディソン校の校歌でもある。マッカーサーは1865年6月に陸軍を退役すると、法律学校へ通い始めたがすぐに辞め、1866年2月23日に第17師団の少尉として軍務に復帰した。復帰した翌日には中尉に、9月には大尉に昇進するが、そのまま20年間は大尉のままだった。1885年にインディアン戦争のアパッチ作戦に参加し、ジェロニモ以下先住民族を殲滅させ、1897年に中佐に昇進した。米西戦争の際、マッカーサーはジョージア第三連隊の参謀をしていた。1898年6月に臨時昇進して准将になると、米比戦争に義勇軍師団長として参加、1898年のマニラ戦争で少将に昇進する。米比戦争ではエミリオ・アギナルド初代フィリピン大統領を生け捕りにしたり、現地の先住民族を絶滅させる。後にフィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となる。駐日アメリカ大使館付き駐在武官として日露戦争を観戦する。1909年6月2日(64歳を超えた日)に最終階級中将で陸軍を引退した。晩年は家族と共に隠遁生活をしたと言われている。1912年9月5日にミルウォーキーで開催された南北戦争退役軍人同窓会で、演説中に壇の上で心臓発作を起こして倒れ、67歳で死亡した。最初は1912年9月7日にミルウォーキーに葬られたが、1926年にアーリントン国立墓地へ移された。
出典:wikipedia
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