『メノン』(メノーン、、)はプラトンの初期末の対話篇である。副題は「徳について」。『メノン』は執筆時期的にも内容的にも『ソクラテスの弁明』や『ラケス』といったプラトンの初期対話篇と『饗宴』『国家』などの中期対話篇の結節点に当たる位置を占めており、初期対話篇的な特徴を有しつつも中期対話篇でより詳しく洗練された形で語られるアイディア――想起説、「真理(知識)」と「思いなし(思惑、臆見)」の区別、仮設法など――が荒削りではあるが述べられている。短いながらも簡潔明瞭にまとめられたその内容から、「プラトン哲学の最良の入門書」として評価も高い。紀元前402年初頭のアテナイ某所。メノンがソクラテスに、徳は人に教えられるものか尋ねるところから話は始まる。ソクラテスは、彼がそうした問いをするのはテッタリア地方に赴いて多大な影響を与えているゴルギアスの影響だと推察しつつ、自分は教える云々以前に、そもそも徳が何であるかすら知らないし、知っている人に会ったこともないと言う。こうしてソクラテスとメノンの徳にまつわる問答が開始される。途中、メノンの召使に幾何学の問いに答えてもらったり、アニュトスが対話に加わる(しばらくして怒って沈黙)などしながら、ソクラテスがメノンとの問答を終え、そこを去るまでが描かれる。『パイドン』において、本篇の想起説の証明が要約的に振り返られている(73A-B)。また、アリストテレスは、その著作『オルガノン』内で、本篇を2回、名指しで言及している。対話はメノンがソクラテスに対して「徳は教えられうるのか」と問うことから始まる。それをソクラテスはそれが何であるかを知らなければそれがどういうものであるかを知ることはできないとして「徳とは何か」という問いに主題を転換させ、メノンにその答を求める。メノンはいくつかの答を提出するも、いずれもソクラテスに否定され、苦し紛れのうちに知らないものを探求することはできないという後に「探求のパラドックス」と呼ばれるパラドックス(探求の対象が何であるかを知っていなければ探求はできない(さもなくばそれは顔も名前も知らない人を探すようなものである)。しかし、それを知っているならば既に答えは出ているので探求の必要はない)を提出する。それに対してソクラテスは想起説を以ってそれに答え、メノンに再び探求をするよう勧める。しかし、メノンは再び当初の「徳は教えられうるのか」という問いに立ち返り、ソクラテスにその回答を求める。それに対してソクラテスは(不本意ながらも)仮設法を以って答えようとする。曰く、徳とは知識であり、知識は正しさ(善)であり、知識とは教えられうるものであるからして徳は教えられうる。ところがその直後ソクラテスはこの結論に疑義を申し立て、その破壊に取りかかる。曰く、得を教えると称するソフィスト、テミストクレスや、ペリクレスといった名だたる政治家を例に取り有徳の政治家などですら徳を教えることができず、徳を教えうる者はいない。ゆえに徳は教えられえない。また、道案内を例にとり、その道を知らなくても適当に見当をつければ目的地に行けることから、人を正しく導くのは正しさだけではなく、思いなしもそれが可能であるから、正しさ即ち知識ではなくなり、徳は正しさでもなくなる。そこでソクラテスは有徳な人は知っていて有徳なのではなく、どの意味で彼らはいわば神がかりの巫女などと同じであるので、徳を神によって与えられるものであると結論付ける。しかし、これは徳の内容、本質にまで踏み込んだ回答にはなっておらず、実質「徳とは何であるか」という問いに対する回答は失敗に終わっている。原典には章の区分は無いが、慣用的には42の章に分けられている。以下、それを元に、各章の概要を記す。本篇では、「徳」は「教えられるもの」ではなく、それゆえに「知識」でもなく、「神によって与えられている、正しい「思いなし」(思惑)」であると結論付けられる。これは一見、「徳」を知的に探求しているソクラテスの態度や、『プロタゴラス』等に見られる「徳は知識である」という命題と、矛盾するようにも見える。しかし、本篇における、「「徳」は「教えられるもの」ではなく、それゆえに「知識」でもない」という考えは、あくまでも、という条件付きの話であると同時に、「徳は教えられる」という仮定から出発する仮設法的議論から、否定的に導かれた暫定的結論であり、この結論自体が1つの「思いなし」(思惑)であり、改善の余地があるものであることが、全篇を通して示唆されている。そして、そのことは、末尾でソクラテスが、「他者に徳を教えることができる者」が出現する可能性を示唆したり、「徳それ自体がそもそも何であるか」を手がけない限りはこうした問題は明確になることはないことに言及していることで、確認される。更に、『ソクラテスの弁明』や『ゴルギアス』等の記述も併せて鑑みれば、まさにソクラテスただ一人のみが、そうした事柄に取り組んでいるのだということが、露わになる。本篇では、「知識」と「思いなし(思惑)」の差異についても言及されている。「思いなし(思惑)」は、それがたまたま上手くいっている「正しい思いなし(思惑)」である限りは、機能・有益性としては「知識」と等価だが、「思いなし(思惑)」は、「原因・根拠・理論」によって裏付けられていないがゆえに、失敗する可能性が常に孕まれていると同時に、記憶に定着させることも困難であることが言及されている。それゆえに、「思いなし(思惑)」を、「行き詰まり(アポリア)の自覚」(無知の知)を経て探求していくことで、「知識」にまで高めていくことの重要性も、ソクラテスと召使の幾何学的問答を通して、本篇では示唆されている。本篇では、後の中期対話篇で頻出することになる、「何でも知っている、輪廻転生を繰り返す不滅の魂が、刺激を受けてその記憶を想起することで、事物に対する知識を生み出す」という「想起(アムネーシス)説」が、はじめて明確な形で打ち出されており、その例として、ソクラテスとメノンの召使による幾何学的問答が提示されている。ただし、これは大真面目の事実として持ち出している話というわけではなく、「そのように考えた方が、知らないことに直面した際に、その探求を鼓舞し、怠惰になることを防ぐのに役立つ」というある種の方便として持ち出されていることが、本篇内では明記されていることに注意が必要。本篇では、「徳自体」が分からないままで、「徳の性質」(徳が教えられるか)を議論していくために、結論・前提を仮設しながら、その条件に矛盾の無いように話を絞り込んでいく、「仮設(ヒュポテシス)法」が持ち出される。ただし、これによって得られた考えは、どこまで行っても仮設(仮説)であって、結局は、「対象それ自体」(この場合は「徳自体」)が何であるかが露わになるまでは、正誤が確定できないままであることが、本篇の末尾などでも指摘されている。
出典:wikipedia
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