ズィヤール朝(ペルシア語 زياريان Ziyāriyān 927年 - 1043年/1090年頃)とは、カスピ海南岸、主にイラン北西部ゴルガーン地方からマーザンダラーン(タバリスターン)地方を支配していたイスラム王朝。第2代君主ワシュムギールの代に隆盛したためワシュムギール家 آل وشمگير āl-i Washmgīr とも呼ばれた。927年に初代君主マルダーウィージュ(在位928年 - 934年)が同地域を支配していたシーア派政権のアリー朝を駆逐して樹立した。最盛期にはこのゴルガーン、タバリスターン地方だけでなく、カスピ海沿岸の西に隣接するギーラーン地方やアルボルズ山脈南麓のレイやクーミス地方にまで勢力を拡大した。第4代君主カーブース(在位978年 - 1021年)はアラビア語詩人としても高名で、学芸の保護者としてよく知られた君主であった。ガズナ朝の襲撃でマー・ワラー・アンナフルを追われたイブン・スィーナーはカーブースの宮廷に庇護受けるためゴルガーンへ赴き、ビールーニーも一時仕えて『古代民族年代記』(Āthār al-Bāqiya)を献呈している。このように10世紀頃のゴルガーンを中心とするズィヤール朝の宮廷はサーマーン朝の首都ブハーラーやブワイフ朝のレイ、ホラズムなどと並ぶイラン高原から中央アジアにおけるイスラーム社会の文化的中心地のひとつであった。しかし、このカーブースの時代にダイラム地方からイラン高原へ進出して来たブワイフ朝との抗争に敗れ、イラン高原への影響力を失った。さらに東方のガズナ朝からの圧迫もあって急速に衰微し、第6代君主アヌーシールワーン(在位1029年 - 1049年)の治世にはついにガズナ朝にゴルガーン、タバリスターンの領土を併合されるに至った。その後ズィヤール朝の当主はカイ・カーウースとその息子ギーラーン=シャーの存在が確認されているが、ギーラーン=シャーを最後に以降の系譜は断絶している。なお、第7代の当主カイ=カーウースは嫡子ギーラーン・シャーに宛てた全四十四章からなる君主としての品行を説いた随筆・鑑文学『カーブースの書』(Qābūs Nāma)を著しており、ペルシア語散文文学の古典的傑作として有名である。
出典:wikipedia
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