蜀漢の滅亡(しょっかんのめつぼう)では、中国の三国時代における、魏の鄧艾・鍾会らが蜀漢(蜀)を滅ぼした戦いについて記述する。蜀漢の丞相の諸葛亮が死去した後、蜀漢の国力は徐々に衰えていた。そして姜維の相次ぐ北伐と256年の段谷の戦いでの大敗により、国力は大いに衰えた。また258年以降に宦官の黄皓が政治権力を握り、蜀漢の政治は大いに乱れた。従来の漢中の防衛法は諸陣営を交錯させて守備するものだったが、姜維は諸陣営を引き退かせ、兵を漢・楽の2城に集中させ、敵が疲弊して撤退した時に追撃して敵を殲滅するのを目的とした防衛法に変えた。蜀漢の国力が衰えたと考えた魏の大将軍の司馬昭と、その部下であった鍾会は蜀漢を制圧できると考えて、益州の地形を調査し、状勢を検討し、討伐の計画を練った。また司馬昭は船を大量に建造し、表向きは呉を討伐する準備をしているように見せかけた。263年夏5月、魏皇帝曹奐の勅令が下され(実質は司馬昭の命令と考えられる)、秋(後主伝では夏)、蜀漢討伐が開始された。鄧艾が兵3万余を率いて甘松・沓中に駐屯している姜維を攻撃し、諸葛緒が兵3万余を率いて武街・橋頭(武都・高楼)に進発、前後から姜維を挟撃することとなった。また、鍾会は兵10万余を率いて漢中を攻撃することとなった。姜維は魏の蜀漢攻撃を察知すると、蜀漢皇帝の劉禅に援軍を要請した。しかし黄皓は占いを信じて敵は攻めてこないと考え、劉禅に姜維の援軍要請を無視するように進言した。そのため援軍の出動は遅れ、鍾会が駱谷に、鄧艾が沓中に侵入しようとする時になって初めて廖化・張翼・董厥らを援軍として派遣した。姜維は鍾会が漢中に攻め入ったのを知ると、後退しようとした。姜維は後退時に鄧艾の部将の楊欣らの追撃を受け、戦ったが敗れた。さらに姜維は諸葛緒に退路を塞がれそうになったが、退避行動を取ったことにより、諸葛緒軍を回避することに成功した。蜀漢の漢城・楽城はそれぞれ5千人の兵で守られていたが、鍾会は前将軍の李輔と護軍の荀愷にそれぞれ1万人の兵を与えて漢城・楽城を攻めさせ、胡烈に陽安関を襲撃させた。これに対して蜀漢の蒋舒は胡烈に陽安関を開け渡して降伏し、蒋舒の同僚の傅僉は戦って戦死した。陽安関を落とした鍾会は、そのまま剣閣へと進撃した。このときになってようやく張翼・董厥は陽安関より南にある漢寿にたどり着き、陰平より撤退してきた姜維・廖化らと合流して引き退き、剣閣を守備することとなった。鍾会は剣閣を攻めたが制圧することができず、また補給線が長くなり補給が困難となったため、撤退することを考えるようになった。このため鄧艾は剣閣を迂回するという奇襲作戦を提案した。そこで冬10月、鄧艾と鍾会の部下の田章は剣閣を迂回し、陰平より非常に険阻な土地700余里を横断し、江油の手前で蜀軍の伏兵3部隊を破り、江油を制圧した。同月、呉に蜀漢から救援要請が来た。そこで呉の孫休は、魏を牽制するために丁奉に魏の寿春を、丁封・孫異に沔中を攻撃させ、留平と施績にもどこへ出兵するか協議させた(『呉書』「孫休伝」)。さらに鄧艾は進撃して、諸葛瞻が守る綿竹を攻めることとなった。鄧艾は鄧忠・師纂を派遣して諸葛瞻を攻撃させたが、破ることができずに敗退。退却してきた鄧忠・師纂は鄧艾に対し「勝利は不可能」と言ったが、鄧艾は鄧忠・師纂を叱り付けて、再び鄧忠・師纂を派遣して諸葛瞻を攻撃し、ついに勝利し、諸葛瞻・張遵・黄崇らを討ち取った。冬11月、諸葛瞻が討たれたことを知った劉禅は、譙周の勧めに従い、鄧艾に降伏し、蜀漢は滅亡した。また剣閣を守っていた姜維らは諸葛瞻が敗れたと聞くと、5万人前後の兵を率いて広漢まで退いたが、劉禅の命令を受けて鍾会に降伏した。264年春3月、劉禅は洛陽に移り、安楽県公に任命された。この頃、劉禅の配下の霍弋が6郡の太守・大将を率いて、魏に降伏した。劉禅を降伏させた鄧艾は旧蜀漢領統治の主導権を握るが、264年春1月、相次ぐ独断専横のため兵権を剥奪され逮捕された。独立の野心を抱いていた鍾会は大軍勢を一人で統率するようになったので、姜維とともに魏に反逆し、胡烈を含む一部の将軍・役人を幽閉した。胡烈の元部下の丘建の従卒が胡烈に食料を差し入れに来た。また、それにならって胡烈の部下の従卒も胡烈に食料を差し入れに来たが、胡烈はその従卒に「丘建が極秘に情報を提供してくれた。鍾会は大穴を掘り、棒を数千本用意して、よその兵を順番に棒で殴り殺して、穴に投げ込むつもりらしい。」という嘘の情報を流した。また、賈輔や王起も同様の情報を流した。これらの情報を聞いた胡烈の息子の胡淵や衛瓘ら諸軍が鍾会・姜維を襲って殺し、鍾会の乱は終わった。この乱で成都は甚大な被害を受けた上に、鄧艾や左車騎将軍張翼や蜀漢太子劉璿、関羽の孫、関興の子供関彝ら多数の将兵が死亡したという。関彝は龐徳の子供龐会に討たれた。呉は蜀漢の滅亡を聞くと兵を退いたが、春2月、歩協・陸抗らが羅憲が守る永安城を攻めた。しかし羅憲は永安城を堅守し、秋7月、胡烈が羅憲の援軍に派遣されると、呉軍は撤退した。
出典:wikipedia
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