土浦海軍航空隊(つちうらかいぐんこうくうたい)は、日本海軍の部隊・教育機関の一つ。予科練の練成を行ってきた霞ヶ浦海軍航空隊を初歩練習・実用練習部隊に改編させるため、予科練習部を独立移転させる形で発足した。太平洋戦争開戦とともに、全国各地に後発の予科練航空隊が林立したが、そのルーツともいえる教育部隊である。原隊である霞ヶ浦海軍航空隊は、大正14年3月1日の開隊以来、一貫して航空機の実機訓練を担ってきた。ここに横須賀海軍航空隊から予科練が移転したのは昭和14年3月1日である。日華事変の長期化と対米英戦を意識した軍拡にともない、霞ヶ浦空での訓練強化が望まれた。そこで、初歩操縦訓練に到達していない予科練習部を移転し、開いたスペースを初歩・実用機訓練部隊に明け渡すとともに、予科練のさらなる拡張を図ることとした。そこで昭和15年11月15日をもって、鹿島海軍航空隊の開隊によって遊休化していた茨城県稲敷郡阿見村の霞ヶ浦空水上機練習場跡に移転し、土浦空を発足させた。移転の際は、霞ヶ浦空の全予科練生を一手に引き受けたため、甲飛・乙飛・丙飛がすべてそろってしまうことになり、特に甲飛と乙飛の対立は深刻の度を増していた。これが後発の三重海軍航空隊・鹿児島海軍航空隊の増設計画に発展する。しかし、戦況の悪化によって、後発航空隊による甲乙分離計画は立ち消えとなり、末期まで尾を引いた。 甲飛第14期前期、清水海軍航空隊に320名、三沢海軍航空隊に450名転出西側の第一海軍航空廠が所在した右籾地域は、一部が国鉄療養所(その後再開発されて摩利山団地となる)や引揚者住宅などに転用されるも、武器関係の整備施設や滑走路は霞ヶ浦駐屯地として残った。霞ヶ浦に面する土浦海軍航空隊跡地(青宿地域)は、昭和27年に立川から保安隊武器学校が移転。旧司令部庁舎など中枢施設を活用しながら、武器学校は陸自の重要教育機関として機能し続けている。土空の北側敷地は、多くが引揚者によって開拓され現在でも整然と区画された農地として残存する。近傍の霞ヶ浦海軍航空隊跡の一部は協和発酵キリン(現在はMCフードスペシャリティーズ)や井関農機の工場になっている。また、中心部の同航空隊本部のあった地域には霞ヶ浦農科大学が開校し、その後茨城県立農科大学→茨城大学農学部と変遷を辿るものの、航空隊時代の建物がごく最近まで校舎として使用されていた。また旧医務室は農科大学に隣接する形で土浦協同病院の分院として開院したが、こちらも1949年に東京医科大学霞ヶ浦病院となり東京医科大学茨城医療センターとして現在に至っている。教育訓練部隊のため、航空機の配属はない。
出典:wikipedia
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