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沖波 (駆逐艦)

沖波(おきなみ)は、日本海軍の駆逐艦。夕雲型駆逐艦(一等駆逐艦)の14番艦である。1942年度(マル急計画)仮称第342号艦として舞鶴海軍工廠で建造されることになり、1942年(昭和17年)8月5日起工。舞鶴工廠では、秋月型駆逐艦4番艦初月《12月29日竣工》、島風型駆逐艦島風、夕雲型5番艦巻波(8月18日完成)等の建造をおこなっていた。また入渠艦艇の整備や、修理艦艇(軽巡那珂《翌年3月31日修理完成》、薄雲《8月5日修理完成、出撃》、霞《8月13日到着。翌年6月30日修理完成》、不知火《9月3日到着》、大潮《12月27日修理完成》、初春《11月6日到着》)等の修理にも追われていた。1943年(昭和18年)初頭になると、舞鶴海軍工廠は夕雲型駆逐艦複数隻(浜波、早波、第342号艦《沖波》、第345号艦《早霜》)や「島風」の艤装工事をおこなっていた。4月24日、ガダルカナル島撤退作戦で損傷した夕雲型5番艦「巻波」が舞鶴に到着、修理に従事する。5月8日、舞鶴工廠では第342号艦(沖波)の建造と並行して、秋月型8番艦冬月(第361号艦)の建造が始まった。5月10日、「島風」が竣工。5月25日、本艦は姉妹艦(岸波、朝霜)や海防艦2隻(御蔵、平戸)、標的艦「波勝」等と共に命名された。3隻(沖波、岸波、朝霜)は同日附で一等駆逐艦夕雲型に登録。7月18日、「沖波」は進水した。 夕雲型12番艦「早波」は7月31日に竣工、夕雲型13番艦「浜波」も10月15日に竣工した。「早霜」も同月20日に進水した。11月6日、日本海軍は鴻型水雷艇鵲水雷艇長や初春型駆逐艦1番艦初春艦長等を歴任した牧野坦中佐(海兵51期)を、沖波艤装員長に任命した。11月10日、舞鶴海軍工廠に艤装員事務所を設置する。11月15日、「沖波」に先駆けて不知火型「不知火」の修理が完了、舞鶴を去った。本艦は12月10日に竣工、沖波艤装員事務所は撤去された。牧野艤装員長も、正式に沖波駆逐艦長(初代)となった。舞鶴鎮守府籍となる。竣工後、訓練部隊の第十一水雷戦隊(司令官高間完少将《前職第二水雷戦隊司令官。12月15日発令、12月27日着任》、司令官代理《12月25日退任》小川莚喜大佐・海軍兵学校46期))に編入。瀬戸内海に回航され、第十一水雷戦隊各艦(第二戦隊《山城、伊勢、日向》、訓練部隊《龍田、岸波、沖波、朝霜》)や修理復帰艦艇(不知火、春雨)等と訓練を受けた。12月29日、燧灘で十一水戦に「春雨」(二水戦、第27駆逐隊)が合同する。駆逐艦4隻(白露型駆逐艦2隻《時雨、春雨》、夕雲型2隻《沖波、朝霜》)は扶桑型戦艦2番艦「山城」を護衛して呉を出発、31日、横須賀回航部隊は横須賀に到着した。1944年(昭和19年)1月4日、夕雲型2隻(沖波、朝霜)は時雨等と別れて内海西部に戻る。以降、第十一水雷戦隊(軽巡《龍田》、駆逐艦《朝霜、沖波、岸波》)は臨時編入艦と共に内海西部で訓練に従事する。1月下旬、サイパン島より横須賀へ向かっていた大鷹型航空母艦2番艦「雲鷹」(1月19日、米潜水艦雷撃で損傷)と護衛駆逐艦(初霜、皐月、潮、曙)は悪天候のため燃料残量が乏しくなり、また米潜水艦に狙われて窮地に陥る。1月29日、夕雲型2隻(沖波、岸波)は桂島泊地を出撃、小笠原諸島周辺を航行中の雲鷹隊救援に向かった。2月4日から5日にかけて、護衛艦艇は燃料不足のため次々に横須賀へ回航される。雲鷹隊には高雄型重巡洋艦1番艦「高雄」も合流していたが、同艦も燃料不足になり、横須賀へ戻った。2隻(沖波、岸波)は2月5日になり雲鷹隊に合流。7日、燃料補給を終えた各艦(高雄、潮、曙、初霜)は雲鷹隊に再合流した。同日夜、雲鷹・高雄以下11隻の護衛艦隊は横須賀に到着して、任務を終えた。2月10日、夕雲型駆逐艦3隻(沖波、岸波、朝霜)は第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期、旗艦能代)第31駆逐隊に編入された。第31駆逐隊は前年7月20日にコロンバンガラ島沖夜間空襲で夕雲型8番艦「清波」を喪失、11月下旬のセント・ジョージ岬沖海戦で駆逐隊司令香川清登大佐と構成艦2隻(大波、巻波)を喪失して夕雲型4番艦「長波」1隻となっており、夕雲型4隻(長波、岸波、沖波、朝霜)で再編された。駆逐隊司令福岡徳治郎大佐(前職第19駆逐隊司令)も3隻(朝霜、岸波、沖波)編入の直前に任命されたばかりである。その「長波」も前年11月中旬のラバウル空襲で大破、長良型軽巡1番艦「長良」に曳航されて日本に帰還後、1月下旬から呉海軍工廠で修理に従事していた。2月26日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)は宇品を出港し、グアムへ移動する第29師団の陸軍兵士と装備品を乗せた安芸丸(日本郵船、11,409トン)、東山丸(大阪商船、8,666トン)、崎戸丸(日本郵船、9,247トン)の3隻の優秀貨客船による『松輸送』に従事した。だが船団は2月29日に米潜水艦の雷撃で「崎戸丸」が沈没、「安芸丸」が損傷した。「沖波」は輸送船を護衛し2隻(岸波、朝霜)で米潜水艦を攻撃、「朝霜」の爆雷攻撃により米潜水艦を撃沈した。この米潜水艦はトラウト ("USS Trout, SS-202") だった。船団はサイパン島に立ち寄った後、グアムに進出した。3月20日、第31駆逐隊(岸波、沖波、朝霜)はトラック諸島行きの東松三号特別船団、輸送船3隻(浅香丸、山陽丸、さんとす丸)を護衛して館山を出航。船団は28日にトラック泊地に到着した。その後、リンガ泊地に進出。同時期、第31駆逐隊僚艦「長波」も修理を終えて戦線に復帰した。5月中旬以降は前進根拠地のタウイタウイ方面にあり、同方面で対潜警戒に従事していた。ところが6月9日、タウイタウイ泊地で対潜掃蕩作戦に従事中の駆逐艦4隻(磯風、谷風、島風、早霜)は、アメリカの潜水艦ハーダー ("USS Harder, SS-257") に狙われ、「谷風」が轟沈した。急遽出動した本艦は、谷風乗組員を救助した。この頃、ビアク島を巡って攻防が繰り広げられており(ビアク島の戦い)、日本海軍は渾作戦を発動してビアク島救援作戦を展開していたが、過去二度にわたる作戦は目的を達しえなかった。そこで、大和型戦艦2隻なども投入して第三次渾作戦を敢行、上陸船団撃破と機動部隊の誘い出しを図る事となった。第一戦隊司令官宇垣纏海軍中将(海兵40期)が率いる渾部隊は、宇垣司令官直率の攻撃隊(第一戦隊《大和、武蔵》、バチャン泊地に先行待機中の第五戦隊《妙高、羽黒》、第二水雷戦隊《能代、島風、沖波》)、第一輸送隊(重巡《青葉》、軽巡《鬼怒》、駆逐艦4隻)、第二輸送隊(津軽)等という戦力を揃えた。6月10日、攻撃部隊(大和、武蔵、能代、島風、沖波)はタウイタウイ出撃。直後にアメリカ潜水艦ハーダーに発見された。これと同時に日本艦隊もハーダーの潜望鏡を発見し、「沖波」はハーダーを攻撃するため部隊から分離した。ハーダーはこの一週間の間にタウイタウイ周辺で駆逐艦3隻(水無月《6月6日》、早波《6月7日》、谷風《6月9日》)を立て続けに撃沈しており、今回も「沖波」の真正面から魚雷を発射した。二つの爆発音が聞こえ、ハーダーは「沖波」を撃沈したと判断したが、本艦は艦首7mで魚雷を回避。逆に爆雷攻撃でハーダーを追い払った。ただし大和座乗の宇垣中将以下日本側もハーダーを撃沈したと判断し、沖波乗組員は「谷風の仇を討った」と思っていた。6月12日、大和以下攻撃部隊はハルマヘラ島バチャン泊地に到着。同地で第五戦隊(妙高、羽黒)と合流。作戦開始を待ったが、6月13日になってサイパン島に対する艦砲射撃が開始されて戦局が急展開していった。攻撃部隊(戦艦《大和、武蔵》、第五戦隊《妙高、羽黒》、軽巡《能代》、駆逐艦部隊《島風、沖波、朝雲、山雲、野分》)は同日夜にバチャンを急遽出撃。第三艦隊司令長官小沢治三郎中将(海兵37期)率いる第一機動艦隊(旗艦大鳳)に合流すべく急行した。6月19日-20日のマリアナ沖海戦では前衛部隊(指揮官栗田健男第二艦隊長官《旗艦愛宕》:第一戦隊《大和、武蔵》、第三戦隊《金剛、榛名》、第四戦隊《愛宕〔前衛艦隊旗艦〕、高雄、鳥海、摩耶》、第三航空戦隊《千歳、千代田、瑞鳳》、第七戦隊《熊野、鈴谷、利根、筑摩》、第二水雷戦隊《軽巡能代、第31駆逐隊〔長波、朝霜、岸波、沖波〕、第32駆逐隊〔藤波、浜波、玉波〕、附属〔島風〕》)として参加。6月19日朝、栗田艦隊が第一航空戦隊(甲部隊)攻撃隊を誤射した際には、「沖波」のみが対空砲火を開かなかったという。実際には「武蔵」等、本艦以外にも射撃していない艦がいた。6月20日の対空戦闘で、栗田艦隊は損傷艦数隻(千代田、榛名、摩耶)を出したが、沈没艦はいなかった。敗北後、日本艦隊は中城湾(沖縄本島)へ移動した。宿毛湾(宿毛湾泊地)からは重巡「摩耶」を護衛して横須賀へ移動、6月30日に到着した。7月9日、第31駆逐隊は第四戦隊をリンガ泊地まで護衛するため臼杵湾を出撃し、昭南を経て7月19日に到着、訓練に励んだ。10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊司令長官栗田健男中将(海兵38期)が指揮する第一遊撃部隊はリンガ泊地から出動し、で補給の後、10月22日に出撃した。ところが翌10月23日未明にパラワン水道において第二艦隊旗艦愛宕(高雄型重巡洋艦2番艦)がアメリカの潜水艦ダーター ("USS Darter, SS-227") の雷撃で、第四戦隊僚艦摩耶(高雄型重巡4番艦)がデイス ("USS Dace, SS-247") の雷撃でそれぞれ沈没し、同じく第四戦隊高雄(高雄型重巡1番艦)がダーターの雷撃で大破して航行不能となった。第31駆逐隊2隻(朝霜、長波)は「高雄」(航行不能、復旧作業中)の護衛を命じられ、栗田艦隊から離脱した。暫定的に2隻となった第31駆逐隊(岸波、沖波)は第二水雷戦隊各艦と共にシブヤン海へ向かった。10月24日のレイテ沖海戦(シブヤン海空襲)では栗田長官(大和座乗)の第一部隊(第一戦隊《大和、武蔵、長門》、第五戦隊《妙高、羽黒、鳥海〔臨時編入〕》、第二水雷戦隊《能代〔旗艦〕、第2駆逐隊《早霜、秋霜》、第31駆逐隊《岸波、沖波》、第32駆逐隊《浜波、藤波》、島風型《島風》)としてアメリカ軍機と交戦、「武蔵」沈没、3隻損傷離脱(妙高、浜風、清霜)という損害を受けた。10月25日、サマール島沖海戦において第七戦隊旗艦(先に旗艦熊野が被雷したため、鈴谷に旗艦変更)の最上型重巡洋艦3番艦「鈴谷」は至近弾により魚雷発射管が炎上して爆発を起こし、瀕死の状態となった。第七戦隊司令官白石万隆司令官は健在の利根型重巡洋艦1番艦「利根」(艦長黛治夫大佐)に利根カッターボートを使用して移乗。駆逐艦2隻(沖波、雪風)に鈴谷生存者・利根短艇乗員の救助収容を命じたが、第十戦隊・第17駆逐隊所属の雪風にはすでに第十戦隊司令官木村進司令官(軽巡矢矧座乗)より原隊復帰命令が出されており、姉妹艦(浦風、磯風)と合流して去っていた。単艦行動となった「沖波」は、波浪に悩まされながら約六時間にわたり鈴谷乗組員救助をおこなった。沈まない場合は雷撃処分も下令されていたが、同艦は13時20分に沈没した。本艦は空襲を受けつつ、鈴谷艦長寺岡正雄大佐以下412名の乗員を救助した。取り残された利根カッターボート乗組員11名(田中春雄中尉含め12名)も収容したが、その後の対空戦闘で4名が戦死した。しかし救援を行っているうちに第二艦隊主力は遠くへ去って単艦となり、鈴谷艦長と相談の上、日没をもって救助活動を中止。単艦で深夜にサンベルナルジノ海峡を通過した。翌10月26日、ミンドロ島東方海域で第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦載機の空襲を受け、先行していた栗田艦隊本隊では軽巡「能代」(第二水雷戦隊旗艦)が沈没した。本隊から遅れていた「沖波」はのべ40機に襲撃され、至近弾で舵を損傷したものの、鈴谷乗組員・利根乗組員の協力を得て空襲を切り抜けた。同日、「沖波」はセミララ島に座礁した夕雲型姉妹艦「早霜」(第2駆逐隊所属、舞鶴建造艦)を発見し接近した。燃料に海水が混じったため「早霜」の使用可能燃料は5トン程度しかなく、「沖波」も余裕はなかったが横付して補給を開始する。この時、2隻(早霜、沖波)は夕雲型11番艦「藤波」(第32駆逐隊)が約10km程沖合を航行するのを発見した。だが「藤波」は空襲を受け、2隻(早霜、沖波)の目前で轟沈した。同艦は25日(サマール沖海戦)で沈没した重巡鳥海乗組員を救助していたが、2隻とも1人の生存者もいなかった。またアメリカ軍機も2隻を襲ってきたため、「沖波」は横付を離して回避に転じる。本艦は「早霜」を残してコロン湾へ向かった。10月27日、第十六戦隊(鬼怒、浦波)救援のため出動した駆逐艦「不知火」(志摩艦隊、第一水雷戦隊所属)はセミララ島近海で擱座した「早霜」を発見、救援中に米軍機動部隊艦載機の攻撃を受けて撃沈された。「沖波」はコロン湾を単艦で出港した最上型重巡洋艦4番艦「熊野」(サマール島沖海戦で艦首喪失)と合流。2隻(熊野、沖波)はマニラに向かった。28日朝、マニラ着。10月30日、本艦は浸水被害を抱えたまま多号作戦に参加することになった。10月31日、多号作戦第二次輸送部隊(警戒部隊《霞〔第一水雷戦隊司令官木村昌福少将旗艦〕、沖波、曙、潮、初春、初霜》、松山光治少将指揮下の護衛部隊《沖縄、占守、海防艦11号、13号》、輸送船《能登丸、香椎丸、金華丸、高津丸》)としてマニラを出撃した。翌11月1日夕刻、輸送部隊はレイテ島オルモック湾に到着して兵員や軍需品の揚陸を開始した。揚陸作業中、「沖波」は「霞」と組んでオルモック湾の南西方向を警戒した。輸送部隊はP-38 とB-24 の攻撃を受け、輸送船「能登丸」(日本郵船、7,191トン)が沈没、駆逐艦「潮」が損傷した。輸送部隊を指揮する第一水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)はこれを見て、同日19時に部隊を出港させた。11月4日朝、輸送部隊はマニラに帰投した。「沖波」はマニラで多号次期作戦に備えて待機した。だが11月5日のマニラ空襲で第五艦隊旗艦「那智」が沈没。同艦を掩護していた「沖波」も損傷を受け戦傷者多数、艦長は入院するに至った。本艦が修理に従事していた11月11日、第三次多号作戦に参加した第31駆逐隊僚艦「長波」が沈没、第二水雷戦隊旗艦「島風」も撃沈され、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将も戦死した。11月12日、緊急輸送作戦のためマニラに入港していた空母「隼鷹」、重巡「利根」(ブルネイで合流)、第30駆逐隊(夕月、卯月)からなる小艦隊は、西村艦隊唯一の残存艦「時雨」を編入してマニラを出港、日本本土へ向かった。時雨と入れ替わる形で軽巡木曾がマニラに残留した。11月13日に第38任務部隊の艦載機がマニラを空襲した。朝からの波状攻撃により軽巡「木曾」、駆逐艦複数隻(曙、初春、秋霜)などマニラ在泊中の艦船は次々と被害を受けた。「沖波」もマニラ湾にて攻撃を受けて損傷、火災が発生した。朝霜等の救援により陸岸に移動して消火に成功したが、浸水が進み着底した。この時点で、「沖波」に残る乗組員は約30数名となった。生存者のうち178名はフィリピンの戦いにおける陸上兵力に転用されている。同日夜、残存部隊(霞、潮、初霜、朝霜、竹)はマニラを脱出、ブルネイに向かった。11月15日、「朝霜」は第2駆逐隊(清霜)に転出、沈没していた夕雲型13番艦浜波が書類上第31駆逐隊に編入された。第31駆逐隊4隻(長波、岸波、沖波、浜波)、のうち3隻(長波、沖波、浜波)は沈没もしくは大破着底状態のため書類上の存在に過ぎなかった。11月20日、牧野中佐は沖波駆逐艦長の任を解かれた(12月10日、転勤。艦長代理は沖波砲術長)。また第一水雷戦隊と第二水雷戦隊の統合にともない、同水戦司令官木村昌福少将が第二水雷戦隊司令官となった。12月4日、姉妹艦「岸波」がアメリカの潜水艦フラッシャー ("USS Flasher, SS-249")の雷撃で撃沈された。12月11日、福岡徳治郎大佐は第31駆逐隊司令の職務を解かれた。12月31日、総員退去。1945年(昭和20年)1月7日、「沖波」は爆破処理された。1月10日、本艦を含む夕雲型駆逐艦6隻(長波、浜波、沖波、岸波、早霜、秋霜)は艦艇類別等級表から削除された。同時に帝国駆逐艦籍から除籍。第31駆逐隊も解隊された。4月7日、坊ノ岬沖海戦で「朝霜」も沈没した。第31駆逐隊に所属した夕雲型9隻(長波、巻波、高波、大波、清波、沖波、岸波、朝霜、浜波)は全隻喪失した。駆逐艦長

出典:wikipedia

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