清霜(きよしも)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。一等駆逐艦夕雲型の19番艦であり、最終艦でもある。1942年度(マル急計画)仮称第347号艦として計画され、浦賀船渠の第517番船として建造される。1943年(昭和18年)8月30日、清霜と命名された。同日附で夕雲型18番艦秋霜等も命名。2隻(秋霜、清霜)は駆逐艦一等夕雲型に分類される。1944年(昭和19年)3月4日、浦賀船渠に清霜艤装員事務所を設置。3月5日附で、日本海軍は吹雪型駆逐艦曙水雷長、睦月型駆逐艦11番艦望月艦長、峯風型駆逐艦11番艦太刀風艦長等を歴任した宮崎勇少佐を清霜艤装員長に任命する。5月16日竣工。宮崎艤装員長も正式に清霜駆逐艦長(初代)となった。海軍に引き渡されて横須賀鎮守府籍となり、同日附の戦時編制の改定により第十一水雷戦隊(司令官高間完少将・海軍兵学校41期)に編入された。だが、水中聴音器の不良により横須賀で補修整備を行う。23日に内海西部に到着し、以後訓練にあたった。5月末の第十一水雷戦隊は、軽巡2隻(長良、名取)、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)、吹雪型駆逐艦2隻(電、響)夕雲型19番艦清霜(本艦)、松型駆逐艦1番艦松、神風型駆逐艦9番艦夕凪という戦力だった。6月18日、第十一水雷戦隊の駆逐艦2隻(清霜、松)は十一水雷旗艦の長良型軽巡洋艦1番艦長良とともに横須賀に向かった。横須賀に到着後、小笠原諸島に対する「伊号作戦」に加わり、軽巡2隻(多摩、木曾)、駆逐艦2隻(清霜、皐月)として第二輸送隊を構成し、父島到着後は硫黄島行きの第四輸送隊を構成した。硫黄島への輸送任務を終えた後、僚艦2隻(皐月、夕月)とともに東京行きの第3628船団を護衛する予定であったが、船団の速力が7ノットと遅い事や船団および3隻(清霜、皐月、夕月)が空襲を受けた事により、護衛を取りやめて横須賀に帰投した。7月中旬の第十一水雷戦隊は、長良、高雄型重巡洋艦4番艦摩耶、香取型練習巡洋艦2番艦鹿島、駆逐艦(清霜、竹、朝雲、浦風、冬月)という艦艇で沖縄方面への輸送作戦「ろ号作戦」を実施する。出撃時の輸送部隊は、高間少将(十一水戦司令官)直率の主隊(長良、摩耶、鹿島)と冬月艦長指揮の警戒隊(冬月、清霜、竹、朝雲、浦風)という編制である。なお清霜は夕雲型、浦風は陽炎型(不知火型)、朝雲は朝潮型(満潮型)駆逐艦だが、十一水戦司令部は3隻とも『浦風型駆逐艦』と分類している。7月15日、ろ号輸送部隊(長良、摩耶、鹿島、冬月、清霜、朝雲、浦風、竹)は中津湾を出港。17日に沖縄島南東部中城湾へ到着後、先行した第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)と第三輸送隊(冬月、清霜、竹)に分離、第三輸送隊は南大東島への緊急輸送を行った。宮古島に向かった第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)は内地に帰投せず、そのままリンガ泊地へ向かった。第三輸送部隊は任務を終えて18日夜中城湾帰投。19日、5隻(長良、鹿島、冬月、清霜、竹)は沖縄を出発。翌日の内地帰投をもって『ろ号輸送部隊』は解散した。8月10日、駆逐艦2隻(清霜、竹)は呉を出撃。馬公を経由し、8月16日にマニラに到着、パラオに対する輸送作戦を行ったが8月18日、軽巡名取がアメリカの潜水艦ハードヘッド ("USS Hardhead, SS-365")の雷撃で撃沈され、基地航空隊および駆逐艦3隻(清霜、竹、浦波)はそれぞれ名取沈没現場に派遣されて捜索を行うが手掛かりを得られず、20日になり清霜はパラオ輸送任務についた。竹はパラオ諸島で座礁した駆逐艦五月雨(第27駆逐隊)の救援に向かった。8月15日、日本海軍は夕雲型駆逐艦3隻(早霜、秋霜、清霜)により第二駆逐隊を編制した。駆逐隊司令は、吹雪型駆逐艦綾波艦長や陽炎型駆逐艦11番艦浦風初代艦長等を歴任した白石長義大佐。第二水雷戦隊(司令官早川幹夫少将・海兵44期)に編入された。太平洋戦争における二代目の第二駆逐隊である。太平洋戦争開戦時の第二駆逐隊は白露型駆逐艦4隻(村雨、夕立、春雨、五月雨)で編制されていたが、夕立・村雨の沈没、春雨長期修理により1943年(昭和18年)7月1日附で解隊されていた。9月5日附で清霜駆逐艦長は、古鷹型重巡洋艦2番艦加古水雷長、峯風型駆逐艦10番艦夕風艦長、睦月型3番艦「弥生」駆逐艦長(沈没時)等を歴任した梶本覬少佐に交代した。10月18日、捷一号作戦発動に伴って第二艦隊(司令長官栗田健男中将・海兵38期)とともにリンガ泊地を出撃、清霜は第二駆逐隊から分離して第二部隊(〔指揮官鈴木義尾第三戦隊司令官/中将・海兵40期〕、第三戦隊《金剛、榛名》、第七戦隊《熊野、鈴谷、筑摩、利根》、第十戦隊《矢矧、第17駆逐隊》)に編入された。清霜は第4駆逐隊(満潮、野分、朝雲、山雲)から1隻だけ分派された不知火型駆逐艦野分と共に三番隊(清霜、野分)を編成した。第17駆逐隊(浦風、磯風、雪風、浜風)と共に第十戦隊(司令官木村進少将:旗艦矢矧)の指揮下に入り、レイテ沖海戦に参加する。10月24日、清霜はシブヤン海で空襲により損傷を受け部隊から落伍した大和型戦艦2番艦武蔵(艦長猪口敏平少将)の援護を利根型重巡洋艦1番艦利根(艦長黛治夫大佐)とともに担当するも、対空戦闘中に清霜にも一番魚雷発射管に直撃弾1発(小型爆弾)が命中、最大発揮速力は24ノットに低下、また利根にも命中弾と至近弾があった。だが武蔵の被害はさらに甚大で、完全に継戦能力を失った。島風型駆逐艦島風(第二水雷戦隊所属)が応援にかけつけ、3隻(清霜、島風、利根)で武蔵を護衛することになった。このあと栗田艦隊主力に合同するため2隻(利根、島風《重巡摩耶生存者移乗》)は武蔵の傍を去り、清霜と第17駆逐隊の駆逐艦浜風(昼間空襲により損傷中)は微速前進する武蔵の護衛を命じられた。その後、沈没直前の武蔵から乗組員移乗のため横付けするよう信号が発信されたものの、沈没による渦に巻き込まれるのを避けるため2隻は接近しなかった。19時35分に武蔵が沈没すると、浜風は武蔵乗組員約850名、清霜は約500名を救助した。一旦コロン島に向かった後、10月25日に武蔵生存者の半数をコレヒドール島に揚陸した。これは沈没を隠匿するための措置であり、コレヒドール島の武蔵生存者の大半は後にマニラの戦いに参加して全滅した。10月26日、第2駆逐隊僚艦の早霜が空襲を受け大破、27日にフィリピンのセミララ島に座礁して放棄された。夕雲型姉妹艦藤波(第32駆逐隊)が沈没した高雄型重巡洋艦3番艦鳥海の乗組員を救助して撤退中、早霜の近辺で空襲を受け撃沈された。第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊長官)に所属していた駆逐艦不知火(第18駆逐隊)も同様に空襲を受け撃沈された。清霜は10月29日にマニラ湾で対空戦闘を行った後、タンカー船団を追いかけて護衛にあたった。11月8日夕刻、2隻(清霜、第三十四号掃海艇)はレイテ沖海戦でアメリカの潜水艦ダーター ("USS Darter, SS-227") の雷撃で大破した高雄型重巡洋艦1番艦高雄を護衛してブルネイを出港、11日16時にシンガポールへ到着した。11月13日、マニラ湾に停泊していた第2駆逐隊僚艦「秋霜」がアメリカ軍機動部隊艦載機の空襲を受け、軽巡木曾、駆逐艦複数隻(曙、沖波、初春)等と共に沈没した。11月15日、清霜1隻となった第2駆逐隊に夕雲型姉妹艦朝霜が編入された。清霜は11月26日から12月8日まで昭南で整備を行い、整備を終えた後は航空戦艦2隻(伊勢、日向)、重巡洋艦足柄、軽巡洋艦大淀、駆逐艦朝霜とともにカムラン湾に進出した。12月13日、清霜はレイテ島への輸送作戦である多号作戦参加艦に指名されてマニラに向かい、一時は南沙諸島長島まで進出したが、12月15日にミンドロ島へアメリカ軍が上陸したことでマニラへの進出は中止となり、カムラン湾に引き返した。12月24日、ミンドロ島のアメリカ軍に対する殴りこみ作戦『礼号作戦』が開始され、挺身部隊8隻(第一挺身隊:霞《木村司令官座乗、旗艦》、1番隊《清霜、朝霜》、2番隊《榧、杉、樫》/第二挺身隊《足柄、大淀》)はこれに呼応してカムラン湾を出撃した。2日後の12月26日21時15分、清霜はB-25の爆撃を受け、左舷中部に250キロ爆弾を受ける。重油タンクが破壊され左舷の機関は停止。また数分後には右舷の機関も停止し航行不能となった。この報告をおこなった清霜の梶本艦長は、のちに「アメリカ軍魚雷艇の襲撃ではなかったか」と回想している。艦尾が激しく沈下し船体全てから火災が発生した清霜は、23時15分に大爆発を起こしての地点で沈没した。最後の大爆発はアメリカ軍の魚雷艇が発射した魚雷だった可能性がある。朝霜は清霜が行方不明になった事を旗艦霞座乗の第二水雷戦隊司令官木村昌福少将(海兵41期)に報告したが、木村少将は作戦終了後に救助するので海図に沈没位置を記しておくよう命令した。やがて砲撃を終えた挺身部隊は、霞と朝霜を清霜乗員の救助にあたらせるため残留させ、残りは先にカムラン湾に向かった。2隻(霞、朝霜)は機関を止めて航空機と魚雷艇に警戒しつつ救助活動を行い、木村少将自ら双眼鏡越しに海上に浮かぶ清霜の乗員を数えた。1時間14分に及ぶ救助作業の末、白石長義(第2駆逐隊司令)以下91名が霞に、清霜駆逐艦長以下167名が朝霜に、合計258名が救助された。清霜乗組員の戦死および行方不明者は84名であったが、行方不明者のうちの5名はアメリカ魚雷艇に救助された。この後、清霜生存者の一部はレイテ地区の地上兵力に編入されている。12月29日午後6時30分、挺身部隊はカムラン湾に帰投。同日附で白石大佐(第二駆逐隊司令)と梶本清霜駆逐艦長は、それぞれの職務を解かれた。清霜は2月10日附で夕雲型駆逐艦、帝国駆逐艦籍より除籍された。第2駆逐隊は再び解隊され、最後の夕雲型駆逐艦となった朝霜は第21駆逐隊(初霜、時雨)に編入された。その約2ヶ月後の4月7日、戦艦大和(第二艦隊旗艦)と第二水雷戦隊旗艦矢矧を基幹とする水上特攻作戦に参加した朝霜も機関の故障により第二艦隊から落伍し、空襲を受け沈没した。なお、朝霜の喪失をもって19隻建造された夕雲型駆逐艦は全て沈没した。
出典:wikipedia
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