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鹿角弁

鹿角弁(かづのべん)は、秋田県鹿角地方(鹿角市・小坂町)において、古くから話されている方言で、鹿角方言と分類されることもある。鹿角地方はもともと米代川流域に位置しているため、概括的には秋田弁に包括されるが、江戸時代は盛岡藩(南部領)の支配下にあったため、南部弁(主として岩手県内陸北部の方言)の影響を強く受けている。また北側は青森県(津軽地方)に接しているため、津軽弁と共通するところもある。修飾性が弱く素朴な感じの秋田弁、やや短絡的な傾向が感じられる津軽弁などに対して、鹿角弁は、南部弁の持つ軟らかい言い回しに、更に都(主として京都)の言葉遣いが随所にみられるなど、奥ゆかしく温もりのある方言である。鹿角地方は、いわゆる”鹿角盆地”と呼ばれ、米代川上流域にあり、北は十和田湖、南は八幡平を控え、東側は奥羽山脈にさえぎられるなど、四方を青垣山に囲まれた風光明媚な土地である。また古来、金や銅などが盛んに採掘されていた。鹿角地方は、東北地方北部の内陸の辺鄙な地域にも関わらず、歴史的に注目される地位を保ちつつ、また歴史に翻弄されることもあった。千数百年前、既に砂金が採掘されていたとか、そのことにより都から貴族等がやってきて荘園化し、またそのことにより都の文化や技術が導入されて狭布、紫根染め、馬などの名産地にもなった。その後、金とともに銅の一大産地になり、戦国時代以降明治時代を迎えるまで、秋田藩と盛岡藩とで、鹿角の争奪合戦がたびたび繰り返されてきた。江戸幕府でも、鹿角の重要性を認識し、巡見使は都合9回、わざわざ迂回する形で鹿角に入り、実地に藩境や産銅現場を熟覧したのであった。一方では、これらの地下資源の恩恵を受けて富裕になった土着の武士たち(商人から武士になった者も含む)は、中央からもたらされる新技術や学問を逸早く吸収していた。明治時代に入っても勉学への向上心は引き続き醸成発揮され、十和田湖や八幡平の観光開発、稲作や畑作、果樹、畜産の改良などに果敢に挑戦した。昭和時代になると、地元民により大湯環状列石が発見されるなど、鹿角市内だけでも、縄文時代~奈良・平安時代~中世にいたる遺跡は416ヶ所(1990年3月現在)にも及ぶ。正に太古からの”まほろば”の地に、鹿角の人々は生活を営んできている。鹿角弁(鹿角方言)を研究した代表的なものとしては、次の2著作物がある。著者の内田武志(明治42年~昭和55年)は、父の勤務する尾去沢鉱山永田発電所(水力)の近くで幼少期を過ごしたので、その頃の記憶などを基に本書はまとめられた。永田発電所は、八幡平を間近に望む山間の地にあり、その辺りに暮す人々や生活習慣は、いわゆる”山村”であった。したがって、収録されている方言は、素朴な農山村の生活振りを彷彿させる。著者の大里武八郎(明治5年~昭和47年)は、台湾の高等法院長などを歴任した博学の人である。退職後は花輪(現鹿角市花輪)に帰郷し、主として”マチ”の人々や生活習慣を調査研究するなどしてとりまとめ、本書を著わした。

出典:wikipedia

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