台湾地位未定論(たいわんちいみていろん)または台湾主権未定論(たいわんしゅけんみていろん)とは、台湾独立論の一つであり、第二次世界大戦終結後の台湾の地位や主権については未だ定まっていないという理論。中華民国政府および中華人民共和国政府とも、この理論には反対すると共に、台湾は自らの領土の一部分であるという見解を示している。国際法における台湾の立場を論じたものとして、1967年に国際法学者の陳隆志とその師であるハロルド・ラスウェルが書いた『"Formosa, China and the United Nation"(台湾、中国と国際連合)』がある。その後、マイケル・リースマンも1972年3月の『イェール・ロー・ジャーナル』に「"Who Owns Taiwan: A Search for International Title"」(仮訳:誰が台湾を有するか:国際的権原の研究)を発表している。これらの主張は、いずれも台湾の国際法における地位が定まっていないというもので、住民自決の原則に従って地位の決定を行うべきだというものである。1945年8月、第二次世界大戦が終結すると、日本は9月2日に降伏文書に調印し、ポツダム宣言を受け入れることを表明した。ポツダム宣言では、台湾と澎湖諸島を中華民国に返還するとしていたカイロ宣言の条項を履行することが謳われている。また、昭和天皇も終戦詔書の中で、ポツダム宣言を受諾する旨を述べている。このように、第二次世界大戦後の台湾は、ポツダム宣言およびカイロ宣言により中華民国に返還されたという考えがある一方で、。一方、同年8月17日に発令された一般命令第1号において、台湾の日本軍は連合軍中国戦区総司令官である蒋介石に投降することとされ、蒋介石は同年10月25日に陳儀を派遣し台湾光復を行った。。1949年に中華人民共和国が成立し、中国全土を占領していくと中華民国政府は台湾に逃れた。この頃よりいわゆる「中国の代表権」問題が浮かび上がったほか、。アメリカでは、トルーマン大統領が国務省の意見を取り入れて、台湾防衛を拒否し、国共内戦への介入を行わない立場を取る「台湾不干渉声明」を1950年1月5日に発表した。アチソン国務長官も記者会見で、「中華民国は既に台湾を4年も管理しており、アメリカをはじめとしてその他の同盟国もこの権利と占領に疑問を持っていない。中華民国が台湾を自国の一つの省とした際にも、それは合法的であるから誰一人法的な疑問を出すことはなかった。今、この状況が変わったと考えている者たちがいくらかいる。彼らは、我々に対して非友好的な、現在中国大陸をコントロールしている勢力が、やがていくつかの国から国家承認を得ると考えている。そのため彼らは”よし、我々は条約を待とうじゃないか”と主張している。」と発言している。。しかし同年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、西太平洋における反共防衛ラインを構築するためアメリカ政府は従前の消極姿勢を転換することとなった。トルーマンは開戦から2日後、「朝鮮戦争声明」("Korean War Statement")を発表し、台湾海峡の中立化と台湾海峡防衛のため第七艦隊の派遣を宣言した。さらに、「台湾がもし共産勢力によって占領されれば、太平洋地域にとって、またこの地域で平和維持のための活動を行うアメリカにとって、直接の脅威となる。台湾の今後の地位は、太平洋地域の安全が回復し日本と平和条約を成立させた後に、あるいは国連での議論の後に決定する。」と述べ、。同時期、日本の第二次世界大戦後の善後策についても和平交渉活動が進められていた。戦勝国の一つであった中国には、二つの政府という問題が生じ、両政府とも正当な代表権を主張していた。冷戦体制の下、どちらの代表権を承認するかという姿勢にも各国の間でずれが生じてきていた。このため、日本がどちらの政府を中国の代表として平和条約を締結するかについて大きな関心が集まっていた。平和条約の締結において、ソビエト連邦は中華人民共和国の出席を支援し、アメリカは中華民国政府の出席に向けて努力を重ねたが、最終的にはどちらも招かれることはなかった。1951年9月8日、日本は連合国の諸国48ヶ国とサンフランシスコ平和条約を締結し、正式に戦争状態は終結した。しかし、この条約の第2条b項では「日本国は、台湾及び澎湖諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。」とされたが、放棄された台湾の主権がどこに帰属するのかは明確にされず、同条や第21条のいわゆる「朝鮮条項」のように、直接独立が認められることもなかった。また、サンフランシスコ平和条約第26条では、日本は「この条約の署名国でないものと、この条約に定めるところと同一の又は実質的に同一の条件で二国間の平和条約を締結する用意を有すべきものとする」とされ、日本は講和条約締結後も「中華民国政府と中華人民共和国政府のどちらと平和条約を締結するか」という問題に面することとなった。どちらを選択するかについては、アメリカとイギリスから日本の決定に委ねることで同意されていた。もともと日本の国会でサンフランシスコ平和条約の審議を行った際にも、中華人民共和国と平和条約を締結すべきという意見も出ていた。この時、中華民国政府は外交部長の葉公超を派遣し日本と交渉する傍ら、アメリカを通じて日本に圧力をかけた。1952年4月28日、日本と中華民国は日華平和条約を締結した。この第2条では、日本がサンフランシスコ平和条約に基づき台湾、澎湖諸島、新南群島および西沙群島の一切の権利や請求権を放棄することが改めて承認された。しかし日華平和条約でも放棄された台湾の主権がどこに移ったのかが明らかにされなかった。これらサンフランシスコ平和条約および日華平和条約における台湾の地位に関する条文の内容が、台湾地位未定論が立脚する基礎となっている。1953年にアメリカでアイゼンハワーが大統領に就任すると、かつてはトルーマンの台湾海峡中立化政策を批判していたことがあったが、封じ込め主義を展開した。アイゼンハワーは1954年12月2日に中華民国と米華相互防衛条約を締結した。この条約の第6条では、適用される領土および領域について、「中華民国については、台湾及び澎湖諸島をいい」と定義している。ただしこの条約は後に「本条約により台湾の法律的地位が変更されたとみなしてはならない」という注釈が加えられている。また、日本の池田勇人首相は1964年2月29日に国会で「法律的には中華民国のものではない」と述べ、中華民国の台湾に対する領土の所有権が未確定であることを強調した。1971年10月25日、国連で国連総会決議2758(いわゆるアルバニア決議)が採択された。この決議によって中華人民共和国政府の代表が国連における中国の唯一の合法的な代表とされ、蒋介石の代表(中華民国政府)は追放されることとなった。その後、国際外交上における中華民国と中華人民共和国の立場の優劣は逆転した。中華人民共和国は国交を結んでいる国に対して、「台湾は中国の一部分である」ことの承認を明確にするよう迫った。多くの国が中華人民共和国と外交関係を結ぶ際にこれを明確に示したが、一部の国は中華人民共和国が台湾を自国の領土とする主張に対して「十分理解し、尊重する(日本)」や「認識している(アメリカ)」といった表現を用いた。すなわち、日米両国においては現在でも独立国としての中華民国の存在を公式には認めない一方で、中華民国の実効支配が及ぶ地域(台湾島、金門島、馬祖島等)を中華人民共和国の領土とも認めていない。しかし、中華人民共和国はこうした主張を行う一方で、建国以来一度も台湾を実際に統治していなかった。また、中華民国も実質的には統治しているものの、法律的に正当な統治権の根拠があるかどうかに争いがあった。アメリカは中華民国と断交した後、議会によって国内法の位置付けで台湾関係法を制定した。台湾関係法は、台湾地位未定論の根拠として今なおしばしば引用され、台湾の主権地位を解釈する見解の一つとされている。1972年、中華人民共和国とアメリカは上海コミュニケに署名し、その中でアメリカは、「台湾海峡の両側のすべての中国人が、中国はただ一つであり、台湾は中国の一部分であると主張していることを認識している。米国政府は、この立場に異論をとなえない」と述べた。さらに、1979年の国交樹立の際のコミュニケでも、アメリカ側は上海コミュニケの立場を再表明した。1978年に日本は中華人民共和国と日中平和友好条約を締結したが、その中では台湾の主権の帰属について触れられていない。日本側の立場としては、日本は既に台湾における主権を放棄しているのだから、台湾の主権について口を挟むことはできないというものとなっている。2007年、潘基文国連事務総長が「台湾は中華人民共和国の一部分」と発言していたことに対し、アメリカ政府などが国際連合事務局に向けて「このような見解は受け入れられない」という旨の書簡を送っていたことが報じられた。アメリカはこの書簡の中で、いわゆる「台湾は中華人民共和国の一部分」という点について、国連加盟国の共通認識ではなくアメリカの一貫した立場とも異なると述べている。また、アルバニア決議についても、「台湾が中華人民共和国の一部分だと認めたものではない」と述べている。中華人民共和国政府も中華民国政府も、台湾地位未定論を否定し、台湾は自国の領土の一部分であると主張している。両国が「台湾は自国に帰属する」と主張する根拠のうち、共通する部分としてカイロ宣言の「右同盟国の目的は日本国より1914年の第一次世界戦争の開始以後において日本国が奪取しまたは占領したる太平洋における一切の島嶼を剥奪することならびに満洲、台湾および澎湖島のごとき日本国が清国人より盗取したる一切の地域を中華民国に返還すること」がある。しかし、その他の部分において両国の主張には異なる点がある。中華人民共和国側からは、以下のような点で台湾地位未定論を否定し、自国の領土の一部分であると主張している。中華民国側からは、以下のような点で台湾地位未定論を否定し、台湾が中華民国の主権の下にあると主張している。中華民国外交部は2011年9月6日に改めて国際法に基づく詳細な声明を発表した。以下のような観点で、台湾地位未定論を否定する考え方がある。日本政府は台湾の帰属先について、「発言する立場にない」との見解を取っている。2009年5月、日本政府の在台湾窓口機関「交流協会」の斎藤正樹代表(大使に相当)が「台湾の地位は未確定」という趣旨の発言をおこなった。台湾では野党や独立派がこの発言を歓迎したが、「中華民国は日華平和条約により台湾の主権を日本から移譲された」との見解を示した直後だった馬英九の国民党政権は強く反発し、中国外務省も「中国の利益に対する挑戦」として発言を非難した。斎藤は発言を撤回し、同年12月に代表を辞任した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。