慧沼(えしょう、拼音:Huìzhǎo, 648年 - 714年)は、中国唐代の仏僧。仏典の翻訳に従事し、法相宗の第二祖ともされる。淄州の出身であるため、淄州大師(ししゅうだいし)と尊称される。慧沼の伝記資料としては、李邕『唐故白馬寺主翻訳恵沼神塔碑』(以下『神塔碑』)、『宋高僧伝』などがある。『神塔碑』によれば、慧沼の俗姓は劉氏、彭城の人、諱は玄、字は慧照であるという(『神塔碑』の後の部分に、慧沼の徳の高さを讃えて「なぜ慧海と言わず慧沼というのか」というくだりがあるので、「照」は音通であり「沼」が正しいことがわかる)。5歳の時に親を喪い、15歳で出家した。『金光明経』捨身品を読んで感激し、山中で捨身の志を遂げんとしたこともある。経蔵を博く尋ね、『法華経』『般若経』『涅槃経』などを学び、その奥旨を究めた。咸亨3年(672年)、長安で基と大乗光の二師に修学して高い評価を受け、「山東一遍照」と号した。武周のころから、法宝、法蔵らとともに義浄の翻訳事業に参加している。開元2年(714年)、67歳で入滅した。慧沼が所属した寺院については、複数知られている。『神塔碑』に白馬寺とあり、「大唐斉州神宝寺碣銘」(『全唐文』巻959)に「大都維那僧恵沼」という記述がある。現存する著作『成唯識論了義灯』『因明義断』『因明入正理論義纂要』『能顕中辺慧日論』『法華玄賛義決』『大乗法苑義林章補闕』で「淄洲大雲寺苾芻」などと名乗っていることから、これらの著作が武周が成立し大雲経寺を全国に作らせた690年以降の著作である可能性がある。また『金光明最勝王経疏』『勧発菩提心集』では「翻経沙門」と名乗っていることから、菩提流志や義浄の訳場に列していたころの著作である可能性がある。『因明入正理論続疏』では「正等寺沙門」と名乗っている。現存する著作および現存はしないが目録中に見出される著作は以下の通りである。著作のうち、『法華玄賛義決』『成唯識論了義灯』『因明入正理論続疏』『因明義断』『因明入正理論義纂要』『大乗法苑義林章補闕』は基の著作に対する複注ないし補遺であり、慧沼が基の思想を継承する意図を持っていたことが伺われる。特に『成唯識論了義灯』は、法相宗においては、基の『成唯識論掌中枢要』、智周の『成唯識論演秘』とならぶ三箇疏(さんがのしょ)の一つとして重視されている。また、『成唯識論了義灯』においては円測らの説を、『因明義断』では汴璧を、『因明入正理論義纂要』では文軌を、『能顕中辺慧日論』では法宝の説を強く批判しており、基の学説の正当性を明らかにしようとしたと思われる。特に、法宝『一乗仏性究竟論』の一切皆成説を批判し、五姓各別説の立場から一分不成仏説を主張した『能顕中辺慧日論』は、後の徳一・最澄の論争(三一権実論争)などに大きな影響を与えた。「神塔碑」に慧沼の弟子としてあがっているのは、恵沖微、恵勝説、耶含胐、恵日、福琳、無著、法山、恵融、龍興寺上座恵祥、彼微寺恵光、大雲寺恵灯、法通、法蔵、恵明、正等寺恵嵩、法済寺恵仙である。根無一力氏は、恵日を山東出身の慈愍三蔵恵日に、福琳・恵光を荷沢神会の同名の弟子にそれぞれ比定している。『宋高僧伝』の義忠伝で、慧沼の弟子となっている。法相宗第三祖とされる智周は、『八宗綱要』などの日本の文献では慧沼の高弟とされているが、中国側の資料は少ない。敦煌文献である曇曠『大乗入道次第開決』には、青龍寺の道氤とともに智周が慧沼の弟子としてあげられている。
出典:wikipedia
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