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西岡武夫

西岡 武夫(にしおか たけお、1936年(昭和11年)2月12日 - 2011年(平成23年)11月5日)は、日本の政治家。従二位桐花大綬章。衆議院議員(11期)、参議院議員(2期)、新自由クラブ幹事長、文部大臣(第111・112代)、自由民主党総務会長、新進党幹事長、参議院議長(第28代)などを歴任。1963年(昭和38年)11月、衆議院議員を5期務めた父・竹次郎と、吉田茂が率いる自由党初の女性参議院議員として婦人参政権運動に尽力した母・ハルの地盤を引継いだ世襲候補として第30回衆議院議員総選挙に無所属で立候補。4位当選を果たし、自民党の追加公認を受ける。なお、前職の国会議員である母とともに初登院した。当初は三木派に所属し、自民党青年局長、文教部会長をつとめていた。ロッキード事件を期に、衆議院議員の河野洋平、田川誠一、山口敏夫、小林正巳、参議院議員の有田一寿と共に、6人で自民党を離党。1976年(昭和51年)6月25日に「保守政治の刷新」を掲げて新自由クラブを結党し、西岡は幹事長に就任した。新自由クラブは、結成直後の第34回衆議院議員総選挙で、自民党に不満を持っていた保守層の受け皿になる形で、一挙に17人を当選させた(さらに追加公認1人)。しかし、政策、党の路線をめぐり、野党として革新にも配慮を示す河野や田川と、あくまで保守主義を念頭に置く西岡、山口らとの間に亀裂が生じ、1979年(昭和54年)7月に西岡は単独で新自由クラブを離党した。翌1980年(昭和55年)12月に自民党に復党したが、1983年(昭和58年)12月の総選挙では落選。1986年(昭和61年)の総選挙で当選した後は宮澤派に所属。文教族としてキャリアを積み、1988年(昭和63年)に発足した竹下改造内閣で文部大臣として初入閣。続く宇野内閣でも文相に留任した。1989年(平成元年)、海部内閣で消費税の見直しが持ち上がった際、辞任した自民党税制調査会長の山中貞則に代わり、後任の税制調査会長に就任。1990年(平成2年)2月には早稲田大学雄弁会及び三木派の先輩で、同じ文教族である海部俊樹首相の強い意向で自民党総務会長に就任し、党三役入り。幹事長は竹下派の小沢一郎、政務調査会長は安倍派の加藤六月であった。のちに総裁の海部を含めた四人は自民党を離党し、新進党結党に至るが、この時期にその強い関係ができたと思われる。同年12月、党三役にリクルート事件からの謹慎明けの加藤紘一を送り込みたい宮澤派は西岡に総務会長職の交代を求めるが、これを拒否したため、派閥から除名。政治改革が頓挫したのを契機に海部内閣が総辞職した後、海部を会長とする政治改革推進協議会を自民党に結成。1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙では、自民党から立候補し当選するが、政治改革推進派として執行部批判を強め、梶山静六幹事長が党内の混乱を収拾するために「結束前進の会」を作ろうとしたときはこれを「屋上屋を架すもの」と批判した。結局、西岡は同年12月に自民党を再び離党。改革の会代表、自由改革連合事務局長を経て、翌1994年(平成6年)に新進党結党に参画し、海部党首実現に動く。国会対策委員長、幹事長を歴任。小沢一郎を補佐するが、1997年(平成9年)に新進党は解党した。1998年(平成10年)1月、小沢、加藤六月、野田毅らと共に自由党を結成し、副党首に就任。同年2月、高田勇知事が引退を表明した長崎県知事選挙に党内の慎重意見を抑えて出馬するも、同じく新人の金子原二郎に敗れ落選し補選出馬による国政復帰に意欲的だったが野田幹事長の反対で断念。2000年(平成12年)の第42回衆議院議員総選挙に自由党公認で出馬するが、落選。2001年(平成13年)7月、第19回参議院議員通常選挙に自由党公認で比例区から出馬し、当選。国政復帰を果たした。党参議院議員会長、参院会派「国会改革連絡会(自由党・無所属の会)」代表をつとめる。2003年(平成15年)、民主党との合流(民由合併)が決定すると、当初不参加の姿勢を示した。しかし最終的には参加を決断し、参院会派「民主党・新緑風会」常任役員・顧問に就任した。2006年(平成18年)、皇位継承問題で、皇室典範改正に慎重な立場を明らかにし、党内の保守系議員を中心に「皇室典範改正を慎重に考える会」を結成し会長に就任した。党内では渡部恒三と共に保守派の重鎮となり、党内の保守系議員で構成される永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会にも参加し、外国人参政権反対を表明した。2007年(平成19年)8月、議員歴が長く、国会対策に精通している点が評価され、参議院議院運営委員長に就任した。同月9日、西岡は「次の国会からクールビズの申し合わせを廃棄し、本会議場、委員会室での議案審議に際してはネクタイ着用を義務化したい」と提案した。「制服を着用して国会見学する子どもがいるのに、議員がリラックスした格好をしているのはいかがなものか」と説明した(8月10日付の各全国紙)。これに対して、すでにクールビズが3年目になり広く浸透しているし、参議院先例集にクールビズ以前の1951年(昭和26年)8月から半世紀以上にわたり「ネクタイは外してよい」という申し合わせがあるので、与党のみならず、他野党や身内の民主党内からも批判が出て、この提案を撤回することとなった。この突然の提案については、環境大臣としてクールビズの旗振り役を務めたのが小池百合子であったので、民主党参院国対幹部の見方として「新進党、自由党と行動を共にしながら、自民党に移った小池に対する意趣返しではないか」といった見解も報道された。2009年(平成21年)10月23日、岡田克也外務大臣が閣議の席で、国会開会式での天皇の「おことば」について「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えて欲しい」と宮内庁に求めたのに対し、「天皇陛下の政治的中立を考えれば、お言葉のスタイルについて軽々に言うべきではない。極めて不適切だ」と批判した。なお、天皇の「おことば」の文面の検討は宮内庁の業務ではない。2009年(平成21年)11月17日の記者会見で、2008年(平成20年)3月に武藤敏郎元財務次官を日銀総裁に起用する国会同意人事案に反対したことについて「当時の自公政権と対決するのが主眼であった」と説明し、「財金分離を理由に不同意としたのは、今でもおかしいと思っている」と語った。翌18日に江利川毅前厚生労働次官を人事院人事官に起用する政権の方針が「脱官僚に矛盾する」と批判を浴びているため、過去の過ちを率直に認めることで、江利川人事案に理解を求める狙いがあったと言われる。2010年(平成22年)6月16日、国会最終日で野党が提出していた江田五月議長不信任案、菅直人内閣総理大臣問責決議案、荒井国務大臣問責決議案について、与党民主党の意向を受けて委員長職権で本会議を流会とし、国会最終日に参議院本会議が開かれない異例の事態となった。2010年(平成22年)7月の第22回参議院議員通常選挙で民主党が大敗し、民主党は参議院で過半数を割り込んだ。しかしなお参議院第一党であり、参議院議長は第一党から出すことになっている慣例を楯に民主党は西岡を議長に推すものの、前国会での江田参院議長、西岡参院議院運営委員長らの国会運営に反発する自民党執行部とみんなの党は自民党からの議長選出を主張した。しかし野党共闘は不調に終わり、自民・みんなの2党は議長選挙への野党統一候補の擁立を断念。西岡を江田の後任の議長とする流れが固まり、自民党は副議長候補を擁立することになった。西岡は同年7月21日、議院運営委員長として理事会で国会運営について野党に謝罪した。しかし、議長選挙では全会一致で議長が決まるのが通例であるのに、西岡は過半数の139票を獲得したものの、白票88票、江口克彦(みんなの党)が11票、尾辻秀久(自由民主党、副議長に就任)が1票と異例の投票結果となった。なお、参議院議長就任に伴い離任した参議院議院運営委員長の後任には、自民党の鈴木政二参院国会対策委員長が就任し、議院運営委員長のポストは野党に明け渡すことになった。参議院議長就任以降、民主党出身ながら民主政権の菅内閣に批判的な立場を取る等、中立性が求められる参議院議長としては過去になかった異例の行動が多かった。議長としての異例な行動の理由に「日本の政治には、もう『余白』や『悠長な時間』が無い」と述べ、また「私へのチェック機能は議長不信任決議案(提出の可能性)などで担保されている」と説明した。2011年(平成23年)9月30日、第178回臨時国会最終日の参議院本会議開会の際、本会議場でよろけながらも職員に支えられてようやく議長席に着いた。また同年10月20日に召集された第179回臨時国会に於いては、口内帯状疱疹で発声に支障があるため当面欠席の意向を示した(議事進行は参議院副議長の尾辻秀久が代行)。第179回国会召集前日の2011年(平成23年)10月19日に参議院議長公邸で西岡と会った民主党幹事長(兼民主党参議院議員会長)の輿石東は「議長は元気な様子」とコメントし、同年10月27日付の産経新聞に「今こそ必要な首相の覚悟」と題した論文を寄稿するなどしていたが、同年11月5日午前2時24分、肺炎のため東京都港区の虎の門病院で死去した。。現職参議院議長の死去は初代議長の松平恒雄(1949年11月14日死去)以来2人目であった。2011年(平成23年)11月11日午前の閣議において、政府は西岡を従二位に叙し、桐花大綬章を贈ることを決めた。11月25日、午前の参議院本会議において副議長の尾辻秀久が哀悼演説を行い、午後には史上3人目の参議院葬儀が青山葬儀所で執り行われた。

出典:wikipedia

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