飛島村(とびしまむら)は、愛知県西部、海部郡の村。伊勢湾最北部に面する。愛知県内で2つしかない村の一つである(もう一つは北設楽郡豊根村)。1889年(明治22年)、愛知県海西郡飛島新田・服岡新田・政成新田が合併して誕生。政令指定都市の名古屋市に隣接し、米のほか野菜や花卉栽培が盛んで、10億6,000万円(2006年(平成18年)度)の農業産出額を持つ農村であると同時に、名古屋港の一角である南部の臨海地域に鉄鋼関連の事業所や発電所、輸出関係の倉庫などが林立する工業地を抱えている。昼間人口は約13,000人で、臨海工業地帯への通勤者が多い。対して、居住人口は約4,500人と少ない。これは、平均海抜マイナス1.5メートルの干拓地で水害を受けやすい場所であるほか、村の市街化区域は8.66平方キロメートルのみで、残り13.87平方キロメートルは市街化調整区域に指定されており、住宅・アパートなどの建設が困難なためという理由もある。2007年(平成19年)9月に公示された基準地価では、同村東浜2丁目「住友倉庫」が30.6%の上昇率となり、工業地としては全国1位を記録した。村の北部は干拓によって出来た海抜ゼロメートル地帯であり、農村風景が広がる。南部は埋め立て地で、名古屋港の一角を占める臨海工業地帯となっている。かつては貧しい村であり、戦前から数度市町村合併の俎上に上るも、相手自治体から拒否された。1944年(昭和19年)の東南海地震でも太平洋戦争下で甚大な災害を被りながら、軍部からの指令により、名古屋市の工場が攻撃される事を防ぐため、田や畑に裸電球を灯して大都市を装い矢面に立つことを余儀なくされ、空襲による犠牲も多かった。さらに1959年(昭和34年)、伊勢湾台風では130名の犠牲者を齎し、村長が県・国に数度対策を哀願するも、財政力の弱さから、復旧は「南海作戦」と呼ばれる海上自衛隊が着手した最後の伊勢湾台風復旧事業により被災から2ヶ月後まで水が引くことはなかった。村民の流出も相次ぎ、1960年(昭和35年)時点、財政力指数は0.22の貧しい自治体であった。同年、当時の愛知県知事・桑原幹根により、伊勢湾台風の直撃を受けた湾岸に臨海工業地帯の建設が計画され、これにより、1968年(昭和43年)には33万平方メートルの貯水場が完成し、行政権は飛島村に属することになった。さらに造船鉄鋼産業地も飛島村に属し、裕福な村へと変貌していった。2011年(平成23年)度の歳入額は約52億8,000万円で、うち固定資産税は約29億8,000万円、同年度の財政力指数は全国最高位の2.32であり、「日本一の金持ち村」として、度々マスメディアで特集を組まれ紹介されている。2002年(平成14年)6月に、弥富町、蟹江町、十四山村とともに「海部南部ブロック市町村合併研究会」を設置し、2町2村による合併へ向けて話し合いに入った。しかし、2003年(平成14年)2月に行われた住民アンケートで合併反対が74%を占めた事から、同年5月、法定協議会への参加を見送ることを決定した。なお、その後、弥富町が十四山村を編入し弥富市になった。飛島村は上記のように財政状況に恵まれており、合併によって住民サービスが低下することを懸念したため、また財政が困窮していた時代に何度も合併拒否され、その後掌を返すように態度を変えたことへの報復と見られている。愛知県としては周辺自治体との合併の検討を促すとしているものの、合併新法に基づく合併推進構想の策定などの具体的な動きはなされなかった。なお、隣接していた十四山村が弥富町との合併問題を巡って紛糾した際には合併反対派から、2村だけの合併ならば飛島村も行政水準を落とさずにやっていけるとして飛島村との合併を期待する主張がなされるなど、事態の推移に少なからず影響を与えた。名古屋市港区が隣接している為、名古屋市方面への移動が多い。日光川を渡った先の南陽地区にはイオンモール名古屋茶屋などの大型商業施設などが位置している。村内には鉄道はなく、飛島公共交通バスが公共交通の手段となっている。村役場への最寄り駅は近鉄名古屋線の近鉄蟹江駅。臨海部の最寄り駅はあおなみ線の稲永駅、名古屋市営地下鉄名港線の築地口駅など。飛島村内に約19近くの寺院・神社がある。
出典:wikipedia
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