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前田利常

前田 利常(まえだ としつね)は、安土桃山時代末期から江戸時代初期の武将・大名。加賀藩第2代藩主。加賀前田家3代。文禄2年(1594年)、加賀藩祖・前田利家の庶子(四男)として誕生。母は側室の千代保(寿福院)。利家の56歳の時の子である。利家が豊臣秀吉の文禄の役で肥前名護屋城に在陣していた時、生母の寿福院は下級武士の娘で侍女として特派されたが、その際に利家の手がついて生まれたのが利常である。幼少の頃は越中守山城代の前田長種のもとで育てられる(長種の妻は長姉・幸姫)。父・利家に初めて会ったのは、父の死の前年の慶長3年(1598年)に守山城を訪ねた折りのことで、利家は幼少の利常を気に入り、大小2刀を授けた。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦い直前の浅井畷の戦いののち、西軍敗北のため東軍に講和を望んだ小松城の丹羽長重の人質となった。この人質として小松城内に抑留されていた際、長重が利常に自ら梨を剥き与えたことがあり、利常は晩年まで梨を食べる度にこの思い出を話した、という逸話が残っている。同年、跡継ぎのいなかった兄・利長の養子となり、名を利光(としみつ)とし、徳川秀忠の娘・珠姫を妻に迎えた(この時珠姫はわずか3歳だった)。徳川将軍家の娘を娶ったことは、利常にとってもその後の前田家にとっても非常に重要な意味を持つことになる。慶長10年(1605年)6月、利長は隠居し、利常が家督を継いで第2代藩主となる。4月8日、松平の名字と源の本姓を与えられる。しかし利常は父以来の菅原姓にこだわり固守したと伝えられている。利常は同母の兄弟がおらず、全て異母兄弟であった。このためすぐ上の兄である知好、末弟の利貞らと協調する事ができなかったり、利家の正室の芳春院(まつ)と生母の寿福院が前田直之(利政の子で芳春院の孫)の処遇をめぐって対立するなど内憂に苦しめられた。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣では徳川方として参戦。10月12日に利常は江戸から金沢へ到着し、同月14日に大坂を目指して出陣するが、この際に士気高揚のため門出に際して「軍神への生贄」として不届きな御馬取りが殺害されたと伝わる。11月17日、利常は住吉で家康に謁見し、阿倍野に陣を布いた。前田軍の規模は徳川方の中でも最大の動員兵力で、2万以上はいたといわれる。前田軍は大坂方の真田信繁軍と対峙した(真田丸の戦い)。家康は大坂城を包囲して心理的圧力を加える腹積もりだったため、家康は利常に攻撃命令を下さなかったが、家康と姻戚関係にある利常は功に焦り、12月4日丑刻(午前2時頃)に軍令に反して独断で真田丸に攻撃をかけ、井伊直孝や松平忠直らの軍勢と共に多数の死傷者を出して敗北した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、5月6日に家康から岡山口(四条畷市)の先鋒を命じられ、前田軍の後方には利常の舅で将軍である秀忠の軍勢が置かれた。5月7日正午、前田軍1万5000人は大坂方の大野治房軍4000人と戦い、苦戦しながらも勝利した。この時、前田軍は松平忠直軍に次いで3200の首級をあげ、『大坂両陣日記』では直参・家中213人が敵を討ち取り、首級は258、雑兵を含む首級の数は3000余とある。前田軍の名のある戦死者は冬の陣では6名、夏の陣では34名であった(『大坂両度御出馬雑録』では41名とある)。なお、大坂夏の陣に際しては、城方が巻き返した折、前田軍中から城方に味方するようにとの声が起こったが取り合わなかったという逸話が伝わる。大坂の陣の終了後の5月13日、家康から与えられた感状では「阿波・讃岐・伊予・土佐の四国」を恩賞として与えると提示されたが、利常は固辞してこれまでの加賀・能登・越中の3か国の安堵を望んで認められた(『国初遺文』)。元和2年(1616年)4月、家康が死の床に就いた際、枕元に来た利常に対して「お点前を殺すように度々将軍(秀忠)に申し出たが、将軍はこれに同意せず、何らの手も打たなかった。それゆえ我らに対する恩義は少しも感じなくてよいが、将軍の厚恩を肝に銘じよ」と述べたという(『懐恵夜話』)。寛永6年(1629年)、諱を利光から利常と改める。元和9年(1623年)には秀忠の嫡男で利常の義弟でもある徳川家光が将軍となっており、その偏諱でもある「光」の字を下(2文字目)におく「利光」の名を避けたものと思われる。代わりに、嫡男の利高がその字を与えられて光高と改名している。寛永8年(1631年)、大御所(前将軍)・秀忠の病中に金沢城を補修したり、家臣の子弟で優秀な者を選んで小姓にしたり、大坂の役の際に勲功があったとして追賞したり、他国より船舶を盛んに購入したりした。このため、大御所である秀忠の病中に乗じて利常に対する謀反の嫌疑をかけられるも(「寛永の危機」)、自ら嫡男・前田光高とともに江戸に下り、家老の横山長知の子の康玄の奔走もあって懸命に弁明した結果、からくも疑いを解くことができた。その後、嫡男・光高の正室に家光の養女・大姫(水戸徳川家の徳川頼房の娘)を迎えている。寛永16年(1639年)6月に嫡男の光高に家督を譲るとともに、次男の前田利次に富山藩10万石を、三男の前田利治に大聖寺藩7万石を分封し、20万石を自らの養老領として小松に隠居した。この隠居の際、家光は制止したが利常は聞かずに隠居届を出して隠居したという。寛永19年(1642年)、四女の富姫が八条宮智忠親王妃となり、幕府に批判的な後水尾院とも深く親交した。ちなみに院の中宮・徳川和子は珠姫の妹に当たるため、利常と院は義兄弟関係にあった。八条宮別業(桂離宮)の造営に尽力したのを機に京風文化の移入にも努め、「加賀ルネサンス」と呼ばれる華麗な金沢文化を開花させた。正保2年(1645年)4月、光高が急死し、跡を継いだ綱紀が3歳とまだ幼かったことにより、6月に将軍・家光からの命令で綱紀の後見人として藩政を補佐した。利常は治世の間、常に徳川将軍家の強い警戒に晒されながらも巧みにかわして、120万石の家領を保った。内政において優れた治績を上げ、治水や農政事業(十村制、改作法)などを行い、「政治は一加賀、二土佐」と讃えられるほどの盤石の態勢を築いた。また御細工所を設立するなど、美術・工芸・芸能等の産業や文化を積極的に保護・奨励した。一方で、綱紀の養育のために戦国時代の生き残りを綱紀の近くに侍らせて、尚武の気風を吹き込んだ。また、綱紀の正室には将軍・家光の信頼厚く幕府の重鎮であった保科正之の娘・摩須姫を迎えるなど、徳川家との関係改善に努めた。万治元年(1658年)10月12日に死去した。享年66。法名は微妙院殿一峯克巌大居士。墓所は石川県金沢市野田町の野田山墓地。なお、死後にはその戒名から微妙公と呼ばれる場合もある。※日付=旧暦(1909年を除く)大坂の役の後、利常は加賀に報恩寺を建てた。家臣の菩提を弔うためで、遺族たちと参内して涙を流し「見る人聞く人、此殿の為に死せし事、露塵計りも押しからじとて、一同に哭し泣けるとぞ」と賞賛されている(『常山紀談』)。子の光高が金沢城内に東照宮を建てた際、酒井忠勝に対して利常は表面的に謝した。しかし、光高に対して「筑前(光高)は若気の至りでいらざることをする」と不快を述べた。そして「もし天下が改まり徳川の権力が衰えたらどこへ遷宮するつもりか」と諭したと伝わる。正室の珠姫が亡くなると、その原因を作ったとされる珠姫の侍女を蛇責めにして殺したという。

出典:wikipedia

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