マヌート・ボル (Manute Bol, 1962年10月16日 - 2010年6月19日)は南スーダン出身の元プロバスケットボール選手及び活動家。身長231cm、体重100kgのボルはゲオルゲ・ムレシャンのデビュー前まではNBA史上最高身長記録の保持者だった。 スーダン南部のディンカ族の酋長の息子で、名前の「マヌート」とは「恵み」の意味を持つ。ディンカ族は世界一の長身民族で、父親は203cm、母親は208cm、曾祖父は240cmあったらしい。ブリッジポート大学の関係者にスカウトされ、18歳で渡米。英語の読み書きが満足に出来なかったにもかかわらず、後にクリーブランド州立大学に入学した。1983年のNBAドラフトでサンディエゴ・クリッパーズに指名を受けたものの、当時ドラフト候補生ではなかったためこの指名は認められなかった。1984-1985年はブリッジポート大学の大学チームでプレーし、1985年のNBAドラフトではワシントン・ブレッツに31位指名を受けた。以後10年間NBAでプレー。1987年にワシントン・ブレッツが身長僅か160cmのポイントガード、マグジー・ボーグスをドラフト指名したことからリーグ史上最高と最小身長の選手が1シーズン同じコートでプレーする事となった。その圧倒的な身長と手足の長さを活かしたプレースタイルでボルはリーグ屈指のディフェンダーとして知られ、類を見ないペースでブロックを重ね続けた。 1985-86年のシーズン中は397ブロックをマークし新人記録を打ち立てた。NBA半シーズンのブロック記録保持者でもある。 また、出場時間1分間につき、176ブロックという記録もNBA史に残る通算記録である。対オーランド・マジック戦では相手の1回の攻撃で4回連続で相手のショットをブロックしたという記録もある。 しかしブロック以外の技術はかなり粗く、芯の細い体型ではフィジカル面に優れている他のセンターやフォワードとのポジション争いではやや遅れを取る場面が多かった。特にシュート能力はリーグ最底辺レベルであった。しかし、シュートレンジ自体は長身選手としては広く、ときおりスリーポイントシュートを成功させた。NBAでは1試合平均2.6ポイント、4.2リバウンド、0.3アシスト、3.3ブロックをマーク。また1試合平均出場時間は僅か18.7分だった。ディフェンスのスペシャリストだったボルは通算1599ポイント、2647リバウンド、2086ブロックを記録し、10シーズンで624試合に出場した。 2007年現在での主な記録は:1994年までNBAでプレーした後、ボルはコンチネンタル・バスケットボール・アソシエーションのフロリダ・ビーチドッグスで1995-1996年のシーズン中22試合プレイしている。また1996年にはUSBLのチームへの入団が発表されたが、実際試合に出場することはなかった。その後イタリアやカタールのプロリーグでもケガで引退を余儀なくされるまでプレイを続けた。後述のようにチャリティー活動に熱心に取り組み、その人間性は高く評価されている。ブレッツにドラフト指名されたボルはワシントンで1985年から1988まで3シーズンをプレイした。新人だった1985年には80試合に出場し、1試合平均5ブロックというキャリア最高のペースでブロックを記録した。1988年にウォリアーズへ移籍し、1990年まで2シーズン在籍。ウォリアーズでの1シーズン目からスリーポイントショットを身に付け始め、そのシーズンはスリーポイントショットを最多の91回放ち、そのうち20ショットを決めるという活躍を見せた。その後3シーズンはセブンティシクサーズでプレイ。1990-1991年のシーズンでは自己最多の全82試合に出場したものの、序々に体力的な衰えが見え始める。2シーズン後、出場試合数は僅か58試合となった。フィラデルフィアでの最後の年となった1993年には元チームメイトのチャールズ・バークレー率いるフェニックス・サンズとの1戦で、試合は負けたものの、後半12回のスリーポイントショットの内半分を決めるという活躍を見せた。ボルは1993年から1994年にかけて1シーズンのみマイアミでプレーしたものの、レギュラーとしては起用されなかった。61分間のプレー中で2ポイントと6ブロックを決めただけで終わった。再びブレッツへと移籍したボルは1993-1994年のシーズン後半で僅か2試合の出場に留まった。自分と同じ231cmの長身新人選手ゲオルゲ・ムレシャンの指導のために契約を結んだとされている。再びセブンティシクサーズへと移籍したボルは1994年のシーズン終了間際に4試合プレーしただけに終わった。ブレッツに再移籍した時と同様、229cmのショーン・ブラッドリーの指導のために契約を結んだとされている。プレー時間は僅か49分間だったものの、6ポイント、6リバウンド、9ブロックの成績を残した。ボルが最後にNBAでプレーしたチームは過去にも所属した事のあったウォリアーズだった。始めて背番号1のユニフォームを着用したボルは見事開幕メンバーに選ばれ、1994-1995年のシーズン開幕直後の5試合をプレーした。シーズン初となるホームゲームでは29分間のプレーで3回のスリーポイントショットをすべて決めるという全盛期を思わせる活躍でチームに大きく貢献した。その後も長身を活かしたプレーで活躍を見せたものの、1994年11月22日のホーネッツ戦で試合開始10分にケガで退場となり、結局その試合を最後にNBAを引退した。現役中もチャリティー活動を行っていたボルは引退後さらにその活動を広めた。10年間NBAでプレーして得た財産はすべて戦争が絶えない母国スーダンの復旧のために使ったと自負している。 スーダンの難民キャンプにも頻繁に足を運び、そこでは王族並みの歓迎で迎えられる程の存在となった。2001年にはスーダン政府に大臣の地位を与えられたものの、イスラム教への改宗を条件とされた為、キリスト教信者のボルはこの申し出を断っている。 その後ボルは政府に同じキリスト教のスーダン人民解放軍の支持者だと決めつけられ、海外行きビザの発行を拒否される羽目になった。コネチカット州知事のジョー・リーバーマンを含むアメリカ合衆国のファンからの寄付金でエジプト行きの航空券を得たボルはカイロのアメリカ大使館で6ヶ月間にも及ぶ交渉でようやく家族と共にアメリカへ帰ることに成功した。その後「Ring True Foundation」というスーダン難民への援助団体を設立し、自身の財産(およそ350万ドル)はすべてこの団体に注ぎ込んでいる。2002年には難民援助団体への寄付を放送で促すことを条件にフォックス放送局の「有名人ボクシング選手権」に出場し、元NFL選手のウィリアム・ペリーに3ラウンド判定勝利を収めている。同年セントラルホッケーリーグのインディアナポリス・アイスと1日契約を結ぶ、騎手としてデビューする等の活動でも援助金を作っている。2004年7月には乗っていたタクシーがガードレイルに当たり転覆するという事故に遭い、首の骨を骨折する大ケガを負っている。 しかし翌年4月にはシカゴ・ブルズの試合開始前のセレモニーに姿を見せている。2006年4月にはニューヨークの国際連合ビルからワシントンD.C.のアメリカ合衆国議会議事堂までのマーチに参加。3週間に渡るこのマーチはスーダン全土での人権侵害、特に西部に位置するダルフールで発生しているジェノサイドへの認識を呼びかける運動で、ボルは開始地点のニューヨークでスピーチも行っている。エジプト在住時にはカイロでバスケットボールスクールも経営していた。同じスーダン難民で、教え子の一人だったルオル・デンは後にアメリカへ移住しシカゴ・ブルズへの入団を果たしている。2010年6月19日、アメリカ合衆国バージニア州シャーロッツビルにて病気のために逝去。。
出典:wikipedia
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