崑崙丸(こんろんまる Konron maru)は鉄道省の関釜航路の鉄道連絡船。天山丸型の第2船である。太平洋戦争で最初に犠牲となった鉄道連絡船であり、当時、鉄道連絡船の就航以来最初の大事故であった。中国西部の崑崙山脈の名をとり命名。関釜連絡船には金剛丸型(金剛丸・興安丸)が1936年(昭和11年)- 1937年(昭和12年)に就航していたが、日本軍や満蒙開拓団などを乗せて大混雑に見舞われていた。そこで、新たに金剛丸型とほぼ同一の天山丸型4隻の建造が決定される。日中戦争(支那事変)および太平洋戦争(大東亜戦争)の影響で軍艦建造が優先される中、第1船天山丸が三菱長崎造船所で1940年(昭和15年)11月に起工して1942年(昭和17年)9月竣工。第2船の崑崙丸は天山丸と同じく三菱長崎造船所で第891番船として1942年6月20日に起工し半年後の12月24日に進水、1943年(昭和18年)3月30日に竣工した。第3・4船の建造は中止された。金剛丸型とほぼ同じ姿であるが、船体は一回り大きかったという。しかし、戦時色が濃くなってきたこともあり、船体は連絡船標準色には塗られず、灰色一色の戦時警戒色であった。しかし1943年(昭和18年)10月5日午前2時頃、下関から釜山に向け航行中、沖ノ島の東北約10海里付近でアメリカ海軍の潜水艦ワフーの魚雷を左舷手荷物室付近に直撃を受け、数分後に沈没してしまった。深夜で就寝した人が多いことも重なり、乗員(旅客と乗組員)655名中、死者行方不明者583人にのぼった。崑崙丸の沈没は鉄道連絡船で最初の戦争の犠牲であった。関釜航路では同年10月8日以降、夜間航行が自粛されることになった。また、日中の航行も海軍の護衛がつくことが多くなったという。一方のワフーも崑崙丸撃沈から一週間を経ない10月11日に宗谷海峡で撃沈された。
出典:wikipedia
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