LINEスタンプ制作代行サービス・LINEスタンプの作り方!

お電話でのお問い合わせ:03-6869-8600

stampfactory大百科事典

すぎやまこういち

すぎやま こういち(本名:椙山 浩一、1931年4月11日 - )は、日本の作曲家、編曲家。日本作編曲家協会(JCAA)常任理事、日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員、日本カジノ学会理事、日本バックギャモン協会名誉会長、喫煙文化研究会代表。東京府東京市下谷区(現在の台東区)生まれ。祖母が子守唄として讃美歌を歌っていたことや、両親が音楽好きだったことから、幼少から音楽に親しむ。また両親がゲーム好きだったことから、物心がついた頃からゲーム好きだった。小学校時代は父の仕事の影響で引越しが多く、1年(東京市鷹番尋常小学校)、2年 - 5年(清水尋常小学校)、5年 - 6年(市川真間小学校)と転校を繰り返す。名古屋に住んでいた頃から鼻歌で作曲を始めるようになる。カール・ブッセの「山のあなた」にメロディをつけて母親に譜面に起こしてもらい家族で歌っていたという。楽譜の読み書き(ソルフェージュ)自体は、この時に父母と声で三部合唱している内に、自然に覚えた。千葉県立千葉中学校に入学するものの、戦況の悪化に伴い、大分県竹田市・岐阜県坂下町に疎開。戦後、東京に戻るが、食糧不足から壊血病になり死にかける。この時期、父が焼け残った我が家の反物を持って、荻窪の駅前にあったレコード屋さんに行き、物々交換でベートーヴェンのレコードやオーケストラの楽譜(交響曲第6番、7番のスコア)を手に入れてきてくれたので、それを元に独学でクラシック音楽の勉強を重ねた。具体的には、「田園」のレコードを竹針の蓄音機で掛けながら、コントラバスのパートなどを声で一緒に歌う、という勉強法で、音楽のエッセンスを身に染み込ませた。東京都立武蔵中学校(現・東京都立武蔵丘高等学校)2年に編入。ここで青島幸男や砂田実と知り合い、青島とは生涯の親友になる。すぎやまが級長、砂田が副級長、青島が問題児という関係であり、退学寸前の大問題を起こした青島を砂田とともに職員会議に乗り込んで助けるなど迷惑を被る一方、青島は当時クラシック一辺倒だったすぎやまにジョージ・ガーシュウィンの伝記映画『アメリカ交響楽』を薦め、ポップスに興味を持たせるなど、短いながらも濃密な時間を過ごした。新制高校の第1期生として成蹊高等学校に入学した後は音楽漬けの日々を送り、音楽部を創立。3年の時には戦時中に活動休止していた学内オーケストラを再組織し、指揮と編曲を務める。このオーケストラには成蹊中学校の服部克久も参加(トランペット担当)。服部はその後もすぎやまに誘われる形でジャズバンドにも参加している。またそのジャズバンドではすぎやまはベーシストを担当していた。卒業が迫った頃には谷桃子バレエ団の依頼でオペラ用に「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」を作曲。このオペラは何度も再演された。当初は音楽大学への進学を望んでいたが、ピアノが弾けなかったことから断念し(『週刊Gallop』の鈴木淑子との対談記事では「音大志望だったがお金がなかったから東大に進学した。」とも述べている)、東京大学理科II類に進学。学業に専念できず、音楽活動と遊びに専念。3年次、自由な時間がなくなるのを嫌って、教育学部教育心理学科へ傍系進学。しかし、教官が(授業にあまり出ない)すぎやまの顔を覚えていたために、テストを受けさせてもらえないなどしたため1年留年して卒業。卒業論文は「青少年の年齢層に対するジャズブームの考察」というもので、テープ(ジャズのリズム隊を従え、実際に音を出しながらすぎやまが語るという形式)で提出した。卒業後、父のコネで工場の品質管理のアルバイトをしていたが、「子供のためのバレエ『迷子の青虫さん』」の再演を音楽評論家の有坂愛彦(当時文化放送芸能部長)が気に入り、引き抜かれる形で文化放送に入社。1年報道部で務めた後、芸能部に移り、「日立コンサート」を担当。ここで音楽業界のプロの作曲・編曲方法を直で体験したことが後の作曲家として生きることになる。1958年、「これからはラジオの音楽番組はコスト面で不可能になる」と判断し、開局準備中だったフジテレビに移籍する。フジテレビ入社後、ディレクターとして『おとなの漫画』を担当。次いで、ラジオのヒットパレード番組をテレビに移植した形になる『ザ・ヒットパレード』を企画。当初は「ヒットパレード系の番組はラジオだからこそ出来るものだ(実際に現場に歌手を大量に集めるのは困難だ)」と局内、広告代理店、スポンサー全てが難色を示していたが、ナベプロ社長の渡辺晋が話に乗り、ナベプロの歌手をノーギャラで出す代わりに、企画・編集にナベプロをクレジットするという大人のやり取りを経て放送にこぎつけた。このいきさつは後年『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』としてドラマ化された。当初は予算がなく、狭いスタジオを広角レンズで撮って広く見せたり、すぎやま自身でテーマソングを作曲するなどして対応していた。弟子の橋本淳によると当時のすぎやまは「フジテレビのヒットラー」を自称していたほど強権的であり、番組に呼んだダスティ・スプリングフィールドが番組直前に口パクじゃないと出演しないとゴネた際に追い返した事件は新聞でも報じられた。上記の『おとなの漫画』『ザ・ヒットパレード』に関しては、ニュース性があり、それゆえに確実にネタ切れしないだろうという目論見で始めたこともあり、いずれも長期間続く人気番組となった。その他、ディレクターとして『森永スパーク・ショー』『新春かくし芸大会』などを手がけた。1960年代からディレクター業と並行してCMの作曲家としても精力的に活動していたが、ミュージシャンへの楽曲提供も始めるようになり、それらの曲がヒットするようになると、自分の番組に自分の曲が出てしまうために変な憶測をされないように苦慮するようになり、またJASRACとフジテレビが著作権料の支払いで揉めるなどし始めたために、当時既に給料より作曲家としてのギャラの方が多かったこともあり、1965年4月にフジテレビを退社した。退職後、フリーのディレクターとしてフジテレビの番組やFMのラジオ番組に携わっていたが、1968年から作曲活動に専念。作曲家としてザ・タイガース(デビュー前から関わり、彼らの命名者でもある)やザ・ピーナッツの黄金時代を支えた。1970年代に入ると特撮音楽、中盤になるとアニメ音楽を数多く手がけるようになり、1978年には劇場版『科学忍者隊ガッチャマン』のBGM(サウンドトラック)の作曲・編曲・指揮を担当し、『交響組曲 科学忍者隊ガッチャマン』という形で発表(NHK交響楽団が演奏した初のアニメ用サウンドトラック)。1980年代半ばになるとゲーム音楽を手がけるようになる。1986年に『ドラゴンクエスト』の作曲を担当したのをきっかけに「ドラゴンクエストの作曲家」となり、以降ゲーム以外の仕事を自ら減らし、専らゲーム作曲家として活動。この時期にオーケストラへの興味が増し、1987年から毎年オーケストラなどを率いて『ファミリークラシックコンサート』『「ドラゴンクエスト」コンサート』などのコンサートを行っている。近年では自ら指揮者として出演することも多い。2004年にはSUGIレーベルを設立。かつて様々なレコード会社から販売されていた『ドラゴンクエスト』関連のアルバムの販売を一元化するとともに、旧作の再発や再演奏・再録音などを行っている。2016年9月3日、東京芸術劇場コンサートホールで行われた『第30回ファミリークラシックコンサート~ドラゴンクエストの世界~』中に、『世界最高齢でゲーム音楽を作曲した作曲家』(2016年1月28日時点)としてギネス世界記録をサプライズ受賞した。1985年8月にエニックス(現スクウェア・エニックス)から発売されたパソコン版ソフト『森田和郎の将棋』の序盤の駒の組み方に疑問を持ったすぎやまは、同ソフトに添えられていたアンケートハガキを熱心に書いたが、投函するのが面倒になりほったらかしにしていた。妻がそれを見つけて投函したところ、エニックスの担当者からゲーム音楽の依頼が入り、『ウイングマン2 -キータクラーの復活-』の作曲を担当することになり、エニックスとつながりが出来た。その直後、同じくエニックスがプロデュースしていた『ドラゴンクエスト』に、内部スタッフが作った音楽の出来が良くないという事態を受けて、エニックスから依頼を受けて制作に参加。当時の開発陣であるチュンソフトは学生のサークルの延長上にあり、初対面時は「異分子が入ってきたぞ」「よそ者だ」と警戒されたが、バックギャモンの話に始まって会話をするうちに無類のゲーム好きなことを分かってもらい、当時日本に二台しかなかったビンゴ・ピンボールにハマり仕事後数時間かけて横浜に行って遊んでいたことに話が及んだ際には尊敬のまなざしを受け、正式に作曲を依頼され、それを受諾。ゲームの世界観を「中世の騎士物語」と説明され、まずリヒャルト・ワーグナーの『ニーベルングの指環』が頭に浮かび、そこで「クラシック音楽をベースにしよう」と基本コンセプトが固まる。マスターアップ直前のことであり、1週間で全ての楽曲を製作。すぎやまはCMなどの音楽で短時間での作業の経験(最も短いもので、12時間で仕上げる依頼もあった)が豊富であったため可能な作業でもあった。またすぎやまは「ちょうど作曲が好調な時期だったことも大きかった」としている。「序曲」のメロディはすぐに出来、それを「54年と5分で出来た曲」(パブロ・ピカソの「1分プラス80年だ」という言葉に感銘を受けて真似をした)と言い、それまでの54年の人生があって初めて「序曲」を生み出すことができたという言い方をしている。また、ゲームのフィールドや戦闘中の音楽に関しては、「何百回も聞くものであるから、聞き飽きないものを心がけている」という。以降、全シリーズの作曲のみならず開発の初期段階(企画立案の段階)からプロジェクトチームの一員として参加している。そのため、テストプレイヤーとしてもエンディングのスタッフロールで名を連ねている。現在でもシリーズ楽曲は交響組曲「ドラゴンクエスト」、イン・ブラスバンド、オン・ピアノ、オン・エレクトーン、弦楽四重奏、金管五重奏、吹奏楽等に編曲され、演奏楽団を自ら指揮しコンサートを行っている。近年は東京都交響楽団などを中心にオーケストラコンサートを各地で行っている。雅楽においては、むつのをによる演奏でとりおこなわれた。音楽以外では、1995年9月にバレエ「ドラゴン・クエスト」がスターダンサーズ・バレエ団によって初演され、以後も数年おきに再演されている。国家基本問題研究所評議員、教科書改善の会賛同者、「国籍法の是正を求める国民ネット」代表委員、歴史事実委員会委員、「安倍総理を求める民間人有志の会」発起人、朝日新聞を糺す国民会議代表呼びかけ人、「放送法遵守を求める視聴者の会」呼びかけ人などを務め、その一員として活動を行っている。政治家に対する直接的な支援としては、松原仁・稲田朋美・城内実などの応援曲の作曲を手掛けたほか、2012年には稲田に計250万円(夫人・之子名義のものを含めると計450万円)、安倍晋三に計160万円、中山成彬に130万円、中山恭子に80万円、赤池誠章に50万円を献金するなど、金銭面での支援もおこなっている。ニューヨーク・タイムズ紙やワシントン・ポスト紙に、「南京事件の被害者が30万人という説、およびそれに基づく日本軍の虐殺行為は事実として認められない」という趣旨の意見広告を載せようとし、一度は断られたが、2007年6月14日付ワシントン・ポスト紙に歴史事実委員会名義で「THE FACTS」(慰安婦問題について強制性はなかったとし、アメリカ合衆国下院121号決議案採択阻止を目指す目的の意見広告)が掲載された。これを主導し、広告費全額を負担したのはすぎやまである。決議案は採択されたが、すぎやまは「広告掲載を受けて当時の下院採決には十数人しか出席しなかった。広告には効果があった」と主張している。2010年2月、三橋貴明、西村幸祐らとともに、「日本人による日本人のためのメディア」という趣旨のもと、“メディアを監視する”ウェブサイト「メディア・パトロール・ジャパン」(MPJ)を立ち上げ、コラムを執筆している。5月、藤井厳喜と西村幸祐が鳩山由紀夫を「公職選挙法違反」の容疑で告発した際、署名の中にすぎやまも名を連ねた。2015年11月には放送局に放送法遵守を求める「放送法遵守を求める視聴者の会」を興した。日本音楽著作権協会(JASRAC)評議員であり、違法コピーを否定する立場を取っている。自らのサイトでは「人には人権・音楽には著作権」という標語を掲げている。簡単に非劣化でコピーできてしまうCDの存在に頭を痛めており、自らのサイトでは「昔のレコードなら、中古で出回っても、使うごとに磨り減るから音質が下がっていったのに」と、レコードを懐かしむ趣旨の発言をしている。コピーコントロールCD(CCCD)が出始めの頃は、「CDの著作権を保護するためには少しの欠点は我慢しても容認すべき」として認める立場を取っていた。しかし、再生装置を破壊することがあることなどが発覚してから普及をあきらめるが、「一刻も早くCCCDにかわる新技術の登場が待たれる」と発言し、新しいコピーガード技術の早期の確立が望ましいという考えを示した。また、「現在は、音楽のコピーし放題が許される状態。法改正も視野に入れて考える問題でもある」と、音楽のコピーを法規制するべきとの考えも示している。フジテレビ時代の弟子および後輩か、事務所スタッフ出身者のどちらかに別れる。橋本淳が前者であり、すぎやまの運転手を務めたのち、すぎやまの指令でキングレコードに移り、作詞家としてのキャリアを積むことになった。後者は小六禮次郎であり、当時のすぎやまの事務所スタッフとして働いていた。父親は東京帝国大学薬学部出身で、昭和薬科大学で教鞭をとった後に、厚生省薬務局製薬課長を経て、防衛庁の技官を務めた。趣味にも走り、全日本麻雀連盟の理事などを務めた。祖母は小学校教頭。妻・之子は東京芸大卒で元東京都交響楽団ヴィオラ奏者。ザ・タイガースの収録で知り合い結婚。すぎやまのCD作品にしばしばスタッフとして登場する。長男は、石田班に属していたフジテレビのプロデューサー時宗大。親子二代でフジテレビに入社している。『ミュージックフェア』の演出をはじめ、ドラマ『ザ・ヒットパレード〜芸能界を変えた男・渡辺晋物語〜』では音楽監修も担当し、番組最後のスタッフロールで「すぎやまjr」と表記された。2015年現在は『アイドリング!!!』のコンテンツプロデューサー。また、日本最大級のアイドルイベント『TOKYO IDOL FESTIVAL』の総合演出も担当している。としてヒットCM多数。大橋巨泉の「はっぱふみふみ」サミーデイビスJR.のサントリーホワイトではカンヌ国際コンクールで日本人初のグランプリを獲得している。他に東京ディズニーランド、ホンダシティなど。2015年にACC CM殿堂入りを果たしている。2000曲以上手がけている。・5/5(水)「ローマの雨」・5/6(木)「交響組曲『ドラゴンクエストⅨ』星空の守り人」

出典:wikipedia

LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。