竹本 土佐太夫(たけもと とさたゆう)は、義太夫節の太夫。(生没年不詳)2代目竹本政太夫の門下で房太夫が寛延年間に名乗る。後に政太夫死に伴い「政太夫」の襲名をめぐって一門で争いになるが政太夫を襲名しなかった。。1767年再び房太夫を名乗るものちに引退。通称「大和屋久兵衛」。後の竹本播磨大掾。(享和3年(1803年) - 明治33年(1900年)5月5日)(生年不詳 - 天保10年(1839年)頃)(生没年不詳)(文久3年9月15日(1863年10月27日) - 昭和16年(1941年)4月2日)本名は南馬太郎。高知の生まれ、新丸という名の素人浄瑠璃出身で1887年に上京し後藤象二郎の書生となる。1888年に3代目竹本大隅太夫門下で1889年3代目竹本伊達太夫の名で彦六座、大隈太夫没後2代目竹本摂津大掾の門下。1914年より御霊文楽座に出座、1926年9月に6目土佐太夫襲名。豊竹山城少掾、3代目竹本津太夫と共に三巨頭と呼ばれた。堀江座、近松座、その後文楽座に移り活躍。晩年は庵に入りで茶、画を嗜んだ。(明治27年(1894年)9月27日 - 昭和43年(1968年)10月20日)本名は田邑兼吉。高知県出身。昭和の文楽を代表する美声家。元々は素人浄瑠璃の横綱で「春駒」を名乗っていたのを、松竹がその美声の評判を聞きつけスカウト。昭和6年(1930年)に6代目土佐太夫に入門。昭和7年(1931年)に初代竹本小春太夫を名乗り、本朝廿四孝「十種香の段」の初舞台で、その美声を披露した。5年後の昭和11年(1936年)に4代目伊達太夫襲名。襲名披露の役が、朝顔日記「宿屋の段」であった。昭和17年(1942年)に豊竹山城少掾の門下。戦後「三和会」を経て、昭和32年(1954年)師名の七代目竹本土佐太夫襲名。襲名披露では艶姿女舞衣「酒屋の段」でそれぞれ好評を博した。
出典:wikipedia
LINEスタンプ制作に興味がある場合は、
下記よりスタンプファクトリーのホームページをご覧ください。