1991年、ケンタッキー州のデュープロセス牧場で生産され、1993年に同場の所有馬として競走馬デビュー。馬名「デヒア」は当時大学バスケットボールのスター選手であったテリー・デヒアーに由来する。初戦のメイドン(新馬・未勝利戦)を4馬身差で制して初勝利を挙げると、次走のサラトガスペシャルステークス(G2)、サンフォードステークス (G3)をいずれも後方からの鋭い追い込みで連勝する。G1競走初出走となったホープフルステークスでは、一転して先行策から2着に2馬身半差を付け、G1初制覇を果たした。しかし次走のフューチュリティステークスでは、雨で馬場が渋る中を中団から追い込んだが、逃げたホーリーブルを半馬身捉えきれず2着となり、デビュー以来の連勝を4で止めた。だが続くシャンペンステークスは4馬身差で圧勝し、全米2歳王者を決めるブリーダーズカップ・ジュヴェナイルへ本命馬として臨んだ。ブリーダーズカップ登録のなかったホーリーブルが出走していなかったこともあり、当日は圧倒的な1番人気に支持された。しかしレースでは第3コーナー手前でスパートをかけながら、最終コーナー以降全く伸びずブロッコの8着と惨敗した。競走後には鼻出血が判明し、休養に入る。しかしこの年のエクリプス賞選考では、ブロッコを僅差で退け、最優秀2歳牡馬に選出された。ジュヴェナイルで敗れた馬の最優秀2歳牡馬受賞は、1988年のイージーゴア以来5年振り2頭目の例であった。1994年は2月のアローワンス(一般戦)から復帰、ここを2着と敗れたが、続くファウンテンオブユースステークス(G2)で後のケンタッキーダービー馬ゴーフォージンを破って復活勝利を挙げた。しかし次走に予定していたフロリダダービー(G1)への調教中に右後脚管骨を骨折。そのまま競走馬引退となった。なお、競走生活中に獲得した賞金は、全て街頭暴力の被害者に対するチャリティー基金として寄付されていた。デヒアに最も多く騎乗したクリス・マッキャロンは「自分が乗ったなかで最もスピードのある2歳馬だった」と語っている。競走馬引退後はクールモア・グループに種牡馬として購買され、ケンタッキー州のアッシュフォードスタッドを拠点に供用された。初年度よりシャトル種牡馬としてオーストラリアでも種付けを行い、同地での2年目の産駒からゴールデンスリッパーステークスなどの優勝馬ベルドゥジュール、G1競走3勝のディファイアーらを輩出した。しかしアメリカでは新種牡馬ランキングこそ2位であったが、G1優勝などの目立った産駒が現れず、2000年に日本軽種馬協会によって購買され、供用拠点を日本へ移した。この直後、アメリカとオーストラリアで残した産駒が次々と活躍を見せた。しかし日本では2頭の中央競馬重賞優勝馬と、地方競馬の活躍馬を数頭出すにとどまり、2005年にクールモアによって買い戻された。2010年にトルコへ輸出される。2014年5月15日に心臓発作で息を引き取った。※日本調教馬(カナ表記)を除いてはG1競走優勝馬のみ記載。
出典:wikipedia
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