第三青函丸(だいさんせいかんまる)は、鉄道省青函航路の鉄道連絡船で、1936年(昭和11年)頃からの同航路の貨物輸送量急増に対応して建造された鉄道車両航送専用の車両渡船であった。その後も貨物輸送需要の増加が続いたため、船型に改良を加えた準同型の第四青函丸も建造された。両船とも建造は浦賀船渠で、ともに太平洋戦争で失われた。ここでは第三青函丸、第四青函丸について記述する。青函丸の名称を持つ車両渡船の第3・4船であった。第一次世界大戦終結後の日本は、1920年(大正9年)の戦後恐慌に始まり、1923年(大正12年)の関東大震災、1927年(昭和2年)の金融恐慌と続く長い不況下にあって、青函航路の貨物輸送実績も1921年(大正10年)から3年間連続で減少していた。しかし1924年(大正13年)以降は増加に転じ、 翔鳳丸型4隻が車両航送を開始した翌年の1926年(大正15年・昭和元年)の貨物輸送量は、上り下り合わせて約65万5000トンと対前年比132%で、車両航送の威力を見せ付けた。第一青函丸も加えた5隻体制の1929年(昭和4年)には80万トンを突破したが、第二青函丸就航により6隻体制となった1930年(昭和5年)には、世界恐慌のあおりを受け、不況は一層深刻化し、同年の貨物輸送量は前年割れの78万トンと、車両航送開始以来初めての減少を経験した。しかし1932年(昭和7年)の75万トンを底にして、翌1933年(昭和8年)には景気回復で83万6000トンまで増加した。しかしその後も、貨物輸送量の増加は一進一退で、依然上記6隻体制で対応可能であった。しかし1936年(昭和11年)の貨物輸送量は対前年比115%の110万トンに迫る伸びを示し、1937年(昭和12年)7月の日中戦争 勃発以後は、第一次世界大戦時同様に、船腹不足による海運貨物の鉄道への転移も加わり、前年比120%前後で増加を続けた。これに対応するため、鉄道省は1937年(昭和12年)9月、車両渡船建造を浦賀船渠に発注、1938年(昭和13年)10月起工、1年の工期で1939年(昭和14年)10月竣工したのが第三青函丸であった。 その後も、戦線の拡大とともに、海運貨物の鉄道への転移はますます顕著になり、1940年(昭和15年)の貨物輸送量は213万トンと4年間で倍増し、太平洋戦争開戦前の1941年(昭和16年)夏には、北海道産石炭を京浜工業地帯へ輸送する船舶にも事欠く事態となった。しかし、当時は民間造船所においても海軍艦艇の建造が優先され、1939年(昭和14年)10月発注の第四青函丸は、ようやく1941年(昭和16年)8月起工したものの、1942年(昭和17年)2月からは海軍艦政本部の管理監督下におかれ、一時船体工事中断の憂き目に遭いながらも1年半以上を費やし、1943年(昭和18年)2月、ようやく竣工した。なお、この年の貨物輸送量は364万トンにも達していた。第三青函丸は、青森、函館の専用岸壁を従来船と共用する旅客扱いしない車両渡船ということで、船体の長さや幅、車両積載数は第二青函丸と大差はなかった。しかし、第二青函丸就航から8年ぶりの建造で、その間の技術の進歩や、第一青函丸、第二青函丸での使用経験を採り入れた、抜本的な改良が加えられていた。第一青函丸、第二青函丸では車両甲板に屋根がなく、荒天時や降雪時の車両緊締作業の難渋や、波浪による車両の損傷がたびたび発生していた。このため第三青函丸では、第二青函丸で車両甲板を部分的かつ別々に覆っていた同じ高さの、船首楼甲板、船体中央部船橋楼の遊歩甲板、船尾楼の後部船橋甲板、を前後につないで、全通の“船橋楼甲板”とし、車両甲板のほぼ全体を覆う屋根とした。更に車両甲板舷側も、車両甲板と船橋楼甲板の間を外板で覆い、“車両格納所”としての体裁を整え、船首楼と船橋楼の間には長さ約16m、船橋楼と船尾楼の間には長さ約29mにわたり、外舷外板に車両甲板面からの高さ3.5mを下縁とする縦1.3mの通風採光用の開口部を設け、冬期や荒天時には、これをキャンバス(帆布)で閉鎖する構造として積載車両の側面も被覆し、これらの問題を解決した。なお、この第三青函丸から戦後の1948年(昭和23年)建造の車両渡船までは、この車両甲板車両格納所屋根の全通甲板を“Bridge deck”または“船橋楼甲板”と呼んだが、1955年(昭和30年)建造の檜山丸(初代)以降は“船楼甲板”となった。この、船橋楼甲板全通により船体縦強度が増し、第一・第二青函丸のような車両甲板下の鉄骨トラス構造による補強は不要となり、また第一・第二青函丸では低い車両甲板を上甲板とし、積載車両丸見えの、いかにも“貨車渡船”という外観から、第三青函丸の全通の高い船橋楼甲板を持つ堂々たる大型船、という印象になった。しかし、これが風圧面積の増大と重心の上昇を招き、前者に対しては舵面積の増大で対応したが、この大きくなった舵を動かせるだけの大出力を持ちながら、車両甲板下の天井の低い操舵機室内に納まる操舵機として、新型汽動式の浦賀式操舵機が考案され、採用された。第二青函丸では、端艇を遊歩甲板(第三青函丸の船橋楼甲板に相当)の甲板室屋上に載せていたため、ここを端艇甲板と称したが、本船では、広くなった船橋楼甲板の後部両舷に端艇2隻ずつを懸架し、船橋楼甲板室の屋上には端艇がなくなったため、ここを遊歩甲板と称した。この甲板室2階の遊歩甲板には、第二青函丸同様、個室の甲板部高級船員居室が配置されたほか、第二青函丸では1層下にあった無線室も上がってきた。甲板室1階の船橋楼甲板には個室の機関部・事務部の高級船員居室、高級船員食堂とその厨房、事務室等が設けられた。甲板室3階の航海船橋には第二青函丸までと同様、両舷に張り出した操舵室が設けられたが、その平面形状は、前面を丸く張り出し、その下に続く甲板室前面の遊歩廊ブルワークも操舵室前面に揃えて同様に丸く、更に船橋楼甲板のブルワークは舷側の遊歩廊にもつながり後部煙突基部まで続き、操舵室を含め、これらが白く塗装され、視覚的にこの前面の丸くなった甲板室が強調された。船橋楼甲板船尾端中央部には、車両積卸しを目視しながらヒーリングポンプの遠隔操作を行う後部船橋があったが、青函連絡船では前進で入港し、岸壁直前で補助汽船の助けを借りて回頭する着岸操船法が既に確立しており、本船以降の青函連絡船では、後進入港時に使う船首舵は装備さず、その舵輪も装備されなくなった。第二青函丸では、船首楼2階の低船首楼甲板と呼ばれた部分は、本船では、車両甲板船首の中2階となり、“Partial Deck”あるいは“部分甲板”と呼ばれ、定員数名から十数名の2段寝台室の甲板部員居室、浴室、トイレが配置され、その下の車両甲板船首部には甲板部員用の食堂、機関部員用浴室、トイレが配置された。更に車両甲板下の錨鎖庫後ろに隣接する第1船艙の第二甲板に、やはり定員数名から十数名の2段寝台室の機関部員居室と機関部員食堂が設けられた。なお“馬匹付添人”等の“その他の者”には、車両甲板下、機械室後ろ隣の車軸室第二甲板に3等船室レベルの雑居室を設けて対応した。第1船艙の後ろには水密隔壁を隔て両舷にヒーリングタンクを抱えた第2船艙があり、更にボイラー室、機械室、車軸室、第3船艙、操舵機室と続き、全通の2重底であった。車両甲板は第一青函丸、第二青函丸と同様、可動橋の架かる船尾端は3線で、すぐに中線が分岐して車両甲板の大部分で4線となるよう軌道が敷設され、車両甲板船首には船員居住区があり、4線ともその直前で横並びの終点で、各線に自動連結器付き車止めが設置されていた。各線の軌道有効長とワム型貨車積載両数は、左舷の船1番線から右舷の船4番線にかけて、それぞれ94m 12両、94m 12両、64m 8両、94m 12両で、計44両の積載が可能であった。当時就航中の翔鳳丸型は船内軌道3線であったが、中線の船2番線は船体中央部の機関室囲壁で行き止まりのため、機関室囲壁より船首側では、船1番線と船3番線は近接して、船体中心線からの距離は比較的短かった。また第一青函丸、第二青函丸は4線であったが、上部構造が小さく重心が低かった。このため、これら6隻では、車両積卸し時、船体傾斜ゼロから、積卸し側の舷側ヒーリングタンクと船外との注排水だけで船体傾斜を制御できていた。しかし、本船では船橋楼甲板全通による上部構造増加で、重心が上昇したため、車両積卸し時の船体傾斜が増大し、このような方法では、当時の可動橋の船体傾斜追従性能を越えてしまうため、両側のヒーリングタンクにそれぞれ半分量の海水を入れておき、船1番線、船4番線積込み前に予め反対側へ2度傾け、積込み時には両側のタンク間で海水移動を行って傾斜を2度以内に収める操作が必要になった。なお、第二青函丸同様、ボイラーからの煙路を車両甲板両舷側に振り分けたため、ヒーリングタンクをボイラー室舷側へは設置できず、前隣の第2船艙舷側への設置となったが、煙路を支障しない程度にヒーリングタンク後部をボイラー室舷側へはみ出させ、ヒーリングポンプをボイラー室前部のポンプ室に配置することで、両舷タンク間の移水パイプを前後に引きまわすことなく設置できた。船橋楼甲板船首には汽動式揚錨機が設置され、その前方、船体中心線上には揚錨機からのシャフトを介して駆動される回転軸が垂直のキャプスタンも設置され、船橋楼甲板船尾には汽動式キャプスタンが左右に1台ずつ設置されていた。これらの配置は翔鳳丸型とほぼ同様であったが、翔鳳丸型を含め通常、揚錨機の力量は錨の大きさで決められていた。揚錨機は両舷の錨の投揚錨を行うほか、揚錨機本体の両側面にはワーピングドラムという水平軸で回転する糸巻き形のドラムが突出しており、これに岸壁と繋いだ係船索を数回巻き付け、スリップさせて張力を調節しつつ係船索を巻き込んで着岸していた。青函連絡船では定時運航確保のため、この着岸係船作業を、1日4回、たとえ悪条件下でも迅速に行うことが求められ、係船索を巻き込むワ―ピングドラムの力量が問われた。しかし錨の大きさで決められた力量では不十分であったため、第三青函丸からは係船索を10トン近い力で引張られても負けない程度の大型の揚錨機が採用され、以後の標準となった。運航船舶数が増加し便数が増加すると、第一青函丸、第二青函丸 のような青森-函館間を6時間運航する船と、翔鳳丸型のように4時間30分運航する船を混用すると、航海中の追越しや、岸壁使用上の制約が発生し、ダイヤ作成が煩雑になるため、第三青函丸以降の新造船には、翔鳳丸型並みの4時間30分運航が可能な性能を持たせ、併せて1日2往復による運航回数増加を図った。このため、大型ボイラーが搭載できるよう、深さ(車両甲板から船底までの距離)を第一青函丸、第二青函丸より約50cm増しの6.6mとしたうえで、舶用スコッチボイラーを各舷前後方向に3缶ずつ計6缶搭載し、各舷とも煙路を前1缶と後ろ2缶に分けたため、煙突は各舷2本ずつの計4本となり、第二青函丸同様、船橋楼甲板室舷側の遊歩廊屋根(遊歩甲板)から立ちあがった。ちょうどこの頃、浦賀船渠でも自社開発の蒸気タービン製造を開始し、その初号機が第三青函丸に搭載された。定格出力2,000馬力の高低圧タービンの2筒式、2段減速歯車付衝動タービンで、これが2台搭載され、航海速力を11ノットから15.5ノットに上げた。垂線間長は110.00mと、第二青函丸の109.73mからほとんど伸びていなかったにもかかわらず、船内の軌道を各線とも約1mずつ延ばし、車両積載数を1両増加させたため、車両甲板船首部分の幅が広くなり、一方、航海速力を15.5ノットに上げるため、船首部分の喫水線以下を鋭くしたため、船首付近側面の喫水線から車両甲板の高さに至る船体外板の傾斜が大きい、フレアーの大きな船型となってしまい、荒天の縦揺れ時に波にたたかれる問題が生じた。鉄道省では、1936年(昭和11年)建造の関釜連絡船 金剛丸(7,081.74総トン)から、日本で初めて、船内電力を、従来の直流100Vから、三相交流60Hz 225Vに変更して採用し、青函連絡船でも、この第三青函丸から、船内電力の60Hz 225V三相交流化が始まった。蒸気タービン駆動の50kVA発電機2台装備し、航海中は1台使用し、出入港時は2台使用となったが、2台並列運転はできなかったため、負荷をそれぞれ、照明と動力に分けて運転した。しかし、揚錨機や操舵機、ヒーリングポンプ等の重要機器は従来通り汽動式のままであった。第三青函丸の縦揺れ時に波にたたかれる問題を解決するため、第四青函丸ではフレアーを少なくして凌波性を改善するため、垂線間長を一気に3.2m伸ばし、113.20mとした。これにともない、船2番線の軌道有効長が96mに、船3番線では65mと約2mずつ延びたが、ワム換算の車両積載数に変化はなかった。この内側2線の延長により、船首での船内軌道終点位置が外側2線と内側2線でずれることになった。また当時戦争のため船内軌道の枕木にする良質な堅木の入手が困難となり、やむを得ず、車両甲板上に溝形鋼を上下逆に置いて溶接し、その上にレールをボルトで固定する方法がとられた。なお、第三青函丸と第四青函丸は、船体長のほか、第三青函丸では操舵室のはるか前方にあった前部マストが、第四青函丸では操舵室直前に移動した以外、大きな差異はなかった。第四青函丸は、青函航路での車両航送開始から、15年以上にわたる運航経験から得られた知見に基づいて、太平洋戦争前の平時に設計され、ボイラー、タービン等重要機器には国産品を採用する等、当時の日本の技術水準と、青函航路の実情に最適化された標準型車両渡船であった。このため、鉄道省は、今後はこの第四青函丸の同型船を追加建造する積もりでいたが、情勢はそれを許さなかった。海軍艦政本部は1942年(昭和17年)2月から、海軍管理工場で施工する、長さ50m以上の鋼船の建造修繕監督権を掌握し、同年4月からは、商船の大量建造のため、艦政本部が選定した10種類の戦時標準船以外の建造着手は許可されなくなった。また当時建造中であった第四青函丸も海軍艦政本部の管理監督下に置かれた。1942年(昭和17年)春、鉄道省は激増する青函航路の貨物輸送需要に対応するため、第四青函丸を基本とした車両渡船4隻の建造を、艦政本部に要請した。しかし艦政本部は、10種類の戦時標準船に該当せず、速力15.5ノットも出せるのに特定の航路にしか使えず、船の大きさの割に積載能力の小さい車両渡船の建造など論外、小型機帆船を多数建造して充当すべし、と言い出す始末で、以後半年以上車両渡船建造計画は進展を見なかった。小型機帆船案はともかく、貨物積載量が車両渡船に近い1,900総トンで速力10ノットの一般型貨物船のD型戦時標準船と、2,800総トンで速力15.5ノットの車両渡船を比較すると、D型戦時標準船は総トン数は少ないが、積載貨物量は車両渡船の約1.3倍と多く、構造も単純なため、建造費は35%、使用鋼材量は半分で、一見D型戦時標準船優位に見えた。鉄道省はこの一般型貨物船のD型戦時標準船等を青函航路に就航させた場合の車両渡船との比較の試算を行い、海軍艦政本部の説得工作を図った。車両渡船は片道4時間30分、荷役のための停泊時間が1時間30分で1日2往復の運航を当時実際に行っていた。一方D型戦時標準船は片道6時間30分、荷役のための停泊に17時間30分も要し、2日で1往復しか運航できないとして計算された。車両渡船1隻がD型戦時標準船4隻に相当するが、D型戦時標準船の積載量が1.3倍であることを考慮すれば3.1隻程度となった。車両渡船の1回の停泊時間は1時間30分で、1岸壁では1日10回の荷役が可能となり、これは車両渡船5隻10往復分である。D型戦時標準船が1.3倍積載できることを考慮すれば、車両渡船10往復分はD型戦時標準船7.7往復分に相当する。2日で1往復のD型戦時標準船を7.7往復させるには15.4隻必要で、同時に両港には6面ずつ岸壁を確保する必要があった。以上より、建造費35%、使用鋼材量半分の一般型貨物船のD型戦時標準船で車両渡船の代替をするには、3倍以上の隻数と6倍の岸壁を要し、それらの岸壁には長時間荷役中の貨物列車を留置する引込線も必要とした。そのうえ車両渡船ではほとんど不要であった荷役に伴う経費も発生し、輸送速度も約1日遅れるため、車両渡船建造の方が明らかに得策であった。なお実際の試算では、D型戦時標準船への積荷が雑貨なのか石炭なのかで、積載重量や荷役時間にかなりの差が出ていたが、車両渡船優位の結論に揺るぎはなかった。この反証や、その後の戦局の悪化もあり、1942年(昭和17年)10月の閣議決定を経て、第四青函丸の建造続行と第四青函丸を徹底的に簡易化した戦時型車両渡船の3隻の建造が12月にようやく正式承認された。これがW型戦時標準船(第五青函丸型)で、「W」はWAGON、貨車の意味であった。このように、1938年(昭和13年)以降、1日2往復運航可能船の隻数は増えたが、急激な貨物輸送量増加で、運航に余裕がなくなっていった。
出典:wikipedia
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