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第五青函丸

第五青函丸(だいごせいかんまる)は、運輸通信省 青函航路の鉄道連絡船で、太平洋戦争開戦後の著しい船腹不足による北海道炭移出輸送の海運から鉄道への転移に対応するため建造された鉄道車両航送専用の車両渡船であった。平時に設計された第四青函丸を原型とし、工期短縮と使用鋼材節減のため簡易化されたW型戦時標準船(第五青函丸型)の第1船で、第五青函丸以降同型船が連番で第十二青函丸まで計8隻建造されたほか、終戦後も平時型2隻が追加建造されたほか、派生形のH型戦時標準船3隻も建造された。一部の船は戦時中の事故や空襲で失われ、更に洞爺丸台風でも失われた。戦後は旅客設備の造設や撤去のほか、船質改善のため幾多の改修工事に明け暮れた一生であった。ここでは第五青函丸型8隻について記述する。1937年(昭和12年)の日中戦争勃発による船腹不足は、海運貨物の鉄道への転移を促し、青函間の貨物輸送量は、1936年 (昭和11年)の110万トンから1940年(昭和15年)の213万トンへと倍増した。しかし、この間の車両渡船の増強は、1939年(昭和14年)11月就航の第三青函丸1隻にすぎず、1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争開戦により、輸送需要は一層増加したうえ、1941年(昭和16年)11月20日には、浮遊機雷の津軽海峡への流入があり、以後半年間は12往復中、夜間便5往復の休航を余儀なくされ、滞貨の山ができてしまった。このため、1941年(昭和16年)12月8日からは、貨物船として元関釜連絡船新羅丸の助勤を受け、1942年(昭和17年)2月15日からは、青函間での機帆船を用いた鉄道貨物一貫輸送も開始し滞貨解消に努めた。機帆船輸送はその後も増加する石炭輸送への対応の一つとして継続増強され、青森、函館両港でも機帆船岸壁ならびに船車連絡設備の整備が推進された。しかし、戦時下、北海道炭の京浜工業地帯への主要輸送ルートとなる室蘭本線・函館本線と東北本線・常磐線とを繋ぐ青函航路が、このような姑息的手段で、その使命を全うできるはずもなく、抜本的解決を迫られた鉄道省は1942年(昭和17年)春、車両渡船4隻の早期建造を海軍艦政本部に要請した。 鉄道も、当時このルートの大部分は単線で、線路容量増大のため、多くの信号場が建設中で、複線化工事を急いでいた区間もあった。青函航路においても、函館港では1941年(昭和16年)4月から、青森港では 1940年(昭和15年)11月から、車両渡船用岸壁増設工事が進められており、函館港有川埠頭の函館第3第4岸壁が1944年(昭和19年)1月3日と11月17日から使用開始され、青森第3岸壁は1944年(昭和19年)5月1日から昼間のみ使用開始(7月20日より昼夜使用)された。更に、有川埠頭では引き続き函館第4岸壁の裏側に右舷着けの第5岸壁が、青森側でも1943年(昭和18年)12月からは夏泊半島東側の小湊に突堤の両側使用となる2岸壁の建設工事が進められた。これら両港の岸壁増設工事と並行して、航送貨車中継施設増強工事も行われ、函館側では五稜郭操車場新設工事が1942年(昭和17年)4月に着工され、1944年(昭和19年)9月に完成し、既設の青森操車場も1940年(昭和15年)から拡張工事が進められ、1944年(昭和19年)2月に竣工していた。一方、艦艇建造で繁忙化した民間造船所における、商船建造の調整を図る目的で、海軍艦政本部は1942年(昭和17年)2月から、海軍管理工場で施工する、長さ50m以上の鋼船の建造修繕監督権を掌握し、1942年(昭和17年)4月からは、商船の大量建造のため、艦政本部が選定した10種類の戦時標準船以外の建造は、許可されなくなった。このため、 鉄道省から、ちょうどこの時期に出された上記の青函航路向け車両渡船4隻の建造要請に対し、艦政本部は、上記の10種類の戦時標準船に該当しないうえ、速力15.5ノットも出せるのに特定の航路にしか使えず、船の大きさの割に積載能力の小さい車両渡船の建造は論外、小型機帆船を多数建造して充当すべき、としてこれを却下した。これに対し、鉄道省は、1,900総トンで速力10ノットの一般型貨物船のD型戦時標準船就航と車両渡船就航との比較検討を行い、片道数時間以内の鉄道連絡船航路における、車両渡船の圧倒的な荷役時間の短さと、それによる、船と岸壁の稼働率の高さを示して、貨車航送の優位性を艦政本部に訴えたが、受け入れられず、しばし膠着状態となった。しかし、1942年(昭和17年)6月のミッドウェイ海戦敗北以降は、アメリカ軍の攻撃による商船の喪失が急増し、海運輸送力は更に逼迫、従来からその多くを内航海運に頼っていた国内炭輸送は危機的状況に陥った。ここに至って、ようやく鉄道省の説得工作が功を奏したのか、政府は1942年(昭和17年)10月の閣議で、“石炭など重要物資の海上輸送を陸上輸送に転移させる。北海道炭輸送については、青函間貨車航送力を最大限度に活用するほか、現に建造計画中の貨車航送船4隻を急速に竣工させる。”と決定した。この4隻には、当時建造中の第四青函丸も含まれ、1942年(昭和17年)12月に、ようやくこの第四青函丸の建造続行と、第四青函丸を徹底的に簡易化した車両渡船1隻(第五青函丸)の追加建造が正式に承認された。これがW型戦時標準船の始まりであった。「W」はWAGON、貨車の意味であった。しかし、残り2隻の建造承認は翌年3月まで持ち越された。以下がW型戦時標準船の建造決定時期で、第十一青函丸と第十二青函丸は建造途上で終戦を迎え、第十三青函丸、第十四青函丸、第十五青函丸は着工すらされなかった。更に、戦後W型戦時標準船の基本設計を引き継いで、1948年(昭和23年)に 北見丸と日高丸の2隻が建造されたが、国鉄部内では、当時就航中のW型戦時標準船にこれら2隻も加え「青函型船」または「W型船」と呼んで分類していた。青函航路では1942年(昭和17年)2月15日から、その貨車航送能力不足補完のため、機帆船を用いた鉄道貨物一貫輸送を始めていたことは既に述べたが、更に上記、1942年(昭和17年)10月の閣議では、貨車航送の補完として、“表日本の海上危険を避くると共に、海上運航効率向上を図る為、可及的裏日本揚げの石炭輸送を増加し、且つ之に照応する港湾荷役及陸上輸送力の増強を図る”との決定もあり、小樽港や室蘭港から、日本海経由での秋田県 船川港から京都府 舞鶴港に至る日本海側諸港までの機帆船による海上輸送と、以後貨車に積み替えての京浜・中京・阪神への鉄道輸送とをつなぐ“裏日本中継”が1943年(昭和18年)1月から実施され、これら港湾での船車連絡設備の増強も実施され、青函航路の機帆船輸送と並行して運航され、終戦までほぼその輸送目標を達成した。W型戦時標準船は、その原型となった第四青函丸 を建造した浦賀船渠が引き続き全船の建造を担当した。1942年(昭和17年)10月以降の商船喪失量は月間10万総トンを超える事態となり、従来の10種類の艦政本部指定戦時標準船(第1次戦時標準船)では簡易化が不十分で大量建造に適さず、建造実績が喪失量に全く追い付けなくなっていた。このため、1942年(昭和17年)10月、艦政本部は工期短縮と使用鋼材節減を最優先し、「船体3年、エンジン1年」といわれる耐用年数や運航効率、安全性を軽視した第2次戦時標準船の基本方針を策定し、W型戦時標準船はこの第2次戦時標準船として設計・建造された。その基本構造や積載能力、航海速力は一応、第四青函丸に準じてはいたが、より薄い鋼板を使用し、工作に手間のかかる船体曲線部分は極力直線化され、二重底も廃止され、第二甲板も一部あるいは全部廃止、更に諸室艤装簡易化のため船員居住区の大部屋化も進められた。その結果、垂線間長と型幅は同一ながら、車両甲板にあった20cmのキャンバー(梁矢:甲板面の船体中心線が高く両舷が低い反り)は廃止され、型深は20cm増しの6.8mとなり、満載喫水は若干増加して5.0mとなった。第1船の第五青函丸では、徹底した簡易化を目指す海軍監督官の意に添うよう、造船所側は上記に加え、船体縦強度確保に重要な船橋楼甲板の一部除去などで720トンもの軽量化を断行しつつ、工期を従来の半分の6ヵ月に短縮し、いよいよ竣工間近という頃、船が浮き上がり過ぎ、車両積み込み時の横傾斜(当時建設中の函館有川第3、4岸壁、青森第3岸壁の新型可動橋では4度まで許容、当時稼働中の在来型は1度50分程度まで許容)が、ヒーリング装置で補正しても8度にも達し、可動橋のねじれが過大となり、2軸貨車が3点支持となって脱線することが判明した。これでは車両渡船としては使用できず、しかも二重底廃止で二重底への海水注入もかなわず、結局ボイラー室前隣の、両舷にヒーリングタンクを抱える第3船艙を深水タンクに改造し、600トンの海水を入れ、機械室後ろ隣の車軸室船底に150トンの砂利を積み込むことで重量を確保し、どうにか使える形で完成させた。第2船の第六青函丸以降はこれに懲りて、このような過剰な軽量化は行われなかったが、第3船艙の深水タンクは引き継がれた。第四青函丸までは、錨鎖庫後ろに隣接する車両甲板下第1船艙第二甲板にあった機関部員居室、車両甲板船首部の普通船員用厨房・食堂、その中2階、部分甲板の甲板部員居室等が、第二甲板廃止に伴い、船橋楼甲板の甲板室へ集約された。しかし甲板室の拡張はなされず、高級船員を含む全船員の居住環境は著しく悪化した。また第三青函丸、第四青函丸にはあった甲板室前面の丸みは、W型戦時標準船では工作簡易化のためほぼ平面となり、甲板室前面遊歩廊は廃止され、甲板室両舷側の船橋楼甲板遊歩廊の屋根も廃止されたが、煙突基部には第二青函丸以来の甲板一層分の高さの四角い囲壁が残ったため、煙突は遊歩甲板高さと同じこの囲壁頂部から立ち上がっていた。W型戦時標準船では、従来からの第1船艙が水密隔壁で前後に分割され、前側から第1船艙、第2船艙としたため、その後ろに隣接する両舷にヒーリングタンクを抱えた従来の第2船艙は第3船艙となり、上記の経緯で深水タンクとなった。この後ろにはボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室の各水密区画が続き、船底は全て単底となった。機関部では、従来6缶あったボイラーのうち前2缶を廃止して4缶とし、第五青函丸では陸軍特務船用の3,000軸馬力の日立製作所製衝動タービンを流用したが、本船には過大であったため、2,250軸馬力に落として使用し、効率の悪い運転となった。また第六青函丸と第七青函丸では、第四青函丸と同等の浦賀船渠製衝動タービンが採用されたが、今度はボイラーの 過熱器が省略されてしまい、4時間30分運航はいよいよ困難となった。第八青函丸以降は2T戦時標準型タンカー用の単筒式の甲25型衝動タービンを使用したが、右回り回転のものしかなく、左右両軸とも右回転での運航となった。またこのタービンの2段減速歯車は構造的に無理があり、故障が頻発した。なおボイラーの4缶化に伴い、ボイラー室船首側隔壁が第四青函丸に比べ5m余り後ろへ移動し、煙突も後ろの2本のみとなった。また1,000総トン以上の船には、所定の武装兵器と海軍警戒隊員の配置が定められていたが、1944年(昭和19年)になって、青函連絡船用として、12cm砲1門と25mm機銃2基、爆雷16個と明示された。戦時中の青函航路の運航状況は、1943年(昭和18年)3月6日の第四青函丸就航により、それまでの12往復から14往復へ、W型第2船の第六青函丸就航後の1944年(昭和19年)4月1日から18往復へ増便され、1944年(昭和19年)5月1日には、青森第3岸壁開設で、両港とも3岸壁使用となり、休航なしの全船フル稼働19往復となった。更に第3船の第七青函丸が就航した1944年(昭和19年)7月20日には、21往復運航に増便された。しかし、1944年(昭和19年)11月22日には、第4船の第八青函丸が就航したが、既にこの頃には、全船フル稼働という過酷な運航体制は破綻しており、これ以上の増便はできなかった。1945年(昭和20年)2月と3月には、事故で2隻を失い、1945年(昭和20年)6月1日には第6船の第十青函丸が就航したが、船舶、施設とも疲弊し、13往復を目標とするに留まった。W型戦時標準船を実際に運航してみて、ボイラー4缶では定時運航困難なことを、ようやく海軍艦政本部も認め、1945年(昭和20年)2月3日起工の第7船、第十一青函丸からは右舷前側にボイラー1缶が増設され5缶となった。この増缶に伴い、ボイラー室は後方へ拡張され、元々のボイラーである左舷2缶と右舷後ろ2缶からの排煙用の両舷の煙突は、第十青函丸までのW型船に比べ5m程度後方へ移動し、右舷前側増設の1缶からの煙突はその約13m前方に設置され、左舷1本右舷2本の3本煙突となったが、終戦時まだ建造中であった。結果的に戦後まで生き延びたのが、第七青函丸、第八青函丸と、1945年(昭和20年)7月14日の空襲で座礁炎上しながらも、戦後浮揚修復され1947年(昭和22年)2月に再就航できた第六青函丸の3隻であった。また建造中に終戦を迎え、終戦直後一時工事中断はあったものの、その後工事が再開された所謂“続行船”が、第十一青函丸、第十二青函丸とH型の石狩丸の3隻であった。上記7月14日の空襲で車載客船、翔鳳丸型全4隻を失った青函航路の旅客輸送力を補うため、第六青函丸では修復工事中に、第七青函丸、第八青函丸、第十一青函丸では就航後の入渠時に、第十二青函丸とH型の石狩丸では建造中に、船橋楼甲板の本来の甲板室の前後に定員300名から400名の旅客用甲板室(デッキハウス)を造設して客載車両渡船とし、“デッキハウス船”と通称された。しかし第十一青函丸、第十二青函丸はそれぞれ新造就航時から、更に1946年(昭和21年)6月17日には、就航中および以後竣工予定の全デッキハウス船が進駐軍専用船に指定され、旅客輸送力増強の目論見は頓挫した。翌1947年(昭和22年)7月21日になり、第十一青函丸、第十二青函丸と石狩丸の3隻以外は指定解除されたが、この3隻はサンフランシスコ講和条約発効に先立つ進駐軍専用列車廃止の1952年(昭和27年)4月1日まで、その指定が解除されることはなかった。W型戦時標準船の戦後は、相次ぐ事故による休航のほか、「船体3年、エンジン1年」と言われた通りの船質の悪さと、船腹不足のための整備不良で、減速歯車をはじめとするエンジントラブルが多発し、稼働率は低迷を極め、早期の船質改善と船腹量回復が急務であった。このため、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸では戦後、ボイラーの4缶から5缶への増設工事(第十一青函丸、第十二青函丸は新造時よりボイラーは5缶)が行われたが、これら3隻では既存ボイラーの左舷前方への1缶増設のため、第3船艙(深水タンク)との間の水密隔壁を5m余り前方へ移設のうえ、第3船艙両舷のヒーリングタンクのうち左舷タンクのみ5m程度前方へ移動してボイラー設置場所を確保した。増設缶からの煙突は左舷煙突前方約14mの舷側への設置となり、左舷2本右舷1本の3本煙突で、第十一青函丸、第十二青函丸とは左右逆で、かつ、これら2隻より煙突位置は前寄りのため、特に空襲による損傷が激しく、修復工事で操舵室が5m弱前方に移動した第六青函丸以外の2隻では、左舷前側煙突が、前部マストよりも若干前方に位置し、操舵室左舷ウィング直後に聳えていた。また、第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸、第十一青函丸、第十二青函丸のボイラー への過熱器付加、主機換装と発電機増設(50kVA2台から3台へ)、減速歯車を含む主機の平時型高低圧タービン2筒式への換装、二重底化などの船質改善工事が進められた。車両積載数は、新造時は原型となった第四青函丸同様ワム換算44両であったが、1952年(昭和27年)以降はワム換算46両積載可能とされていた。なお、W型船の戦前の車両甲板平面図と戦後の同図を比較すると、船2番線と船3番線が錨鎖庫の長さ分約2.7m延長されているが、これと積載車両数増加の関係は不明である。1954年(昭和29年)9月26日の洞爺丸台風では、5隻のW型戦時標準船のうち、二重底化工事完成直後の第十一青函丸が沈没した。この沈没については、船体が三つに破断されており、他船とは異なった要因の関与も疑われたが、確証は得られず、原因不明とされた。洞爺丸事件後の、洞爺丸ほか4隻の沈没原因の研究によると、当夜の函館湾の波は周期9秒、波長約120mで、当時の青函連絡船の水線長115.5mより僅かに長く、このような条件下では、たとえ船首を風上に向けていても、ピッチングにより船尾が勢いよく波の中に突っ込んだとき、その勢いで、海水が車両甲板船尾のエプロン上にまくれ込んで車両甲板に流入、船尾が上がると、その海水は船首方向へ流れ込み、次に船尾が下がっても、この海水は前回と同様のメカニズムで船尾から流入する海水と衝突して流出できず、やがて車両甲板上に海水が滞留してしまうことが判明した。その量は、車両甲板全幅が車両格納所となっている車両渡船では、貨車満載状態で、停泊中であれば、波高6mのとき900トンを超え、この大量の流動水は車両甲板上を傾いた側へすばやく流れるため、これだけで転覆してしまう量であったが、波周期が9秒より短くても長くても、車両甲板への海水流入量は急激に減少することも判明した。更に、石炭焚き蒸気船では、車両甲板から機関室(ボイラー室・機械室)への開口部が多数あり、これら開口部の閉鎖が不完全で、滞留海水が機関室へ流入して機関停止に至り、操船不能となって船位の維持ができなくなり沈没に至る。車両格納所の狭い洞爺丸では、これが沈没の大きな要因と判明した。事故後の1955年(昭和30年)に急遽建造された車両渡船檜山丸(初代)では、車両甲板船尾開口部からの海水浸入対策として、車両甲板から機関室への開口部を水密化したうえ、車両甲板船尾側面に多数の放水口を設置し、車両甲板上に流入した海水を船外へ流出させる方式を採用した。しかし、この方式は、旅客設備のない車両渡船では、その安全性が模型実験などで確認されたが、船橋楼甲板に客室を持つデッキハウス船では、安全性が十分確保できないことが判明した。このため、沈没を免れた車両渡船、デッキハウス船、車載客船全船でも、車両甲板の石炭積込口を含む機関室への開口部の敷居を61cm以上に嵩上げのうえ、鋼製の防水蓋や防水扉を設置、車両甲板から機関室への通風口も閉鎖して電動通風とするなど、車両甲板から機関室への開口部の水密性能の向上を図った。これに伴い発電機も車両渡船、デッキハウス船全船で250kVA2台に交換増強のうえ、容易に水没しないよう機械室中段に設置した。また非常時に救命艇を迅速かつ容易に降下できる重力型ボートダビットへの交換も行われた。第十二青函丸では1957年(昭和32年)6月、二重底化とともに、デッキハウスを撤去し、車両甲板船尾側面に放水口を設置し、車両渡船とした。第六青函丸、第七青函丸、第八青函丸では、デッキハウスを残すため、船体外殻と同等の強度を有する船尾水密扉が設置された。これは、1957年(昭和32年)建造の十和田丸(初代)で実用化した単線幅の船尾水密扉を、横方向に3倍近く大型化して、船尾全幅3線分をカバーできるようにしたもので、その基本構造は、十和田丸(初代)のものと同じであった。この扉は、船尾開口部上縁にヒンジで取り付けられた鋼製の上下2枚折戸式船尾扉で、中央部のヒンジで“く”の字に屈曲し、シャクトリムシのようにこの屈曲部分を後方へ突出しつつ、船尾扉下縁両端を船尾開口部両縁のガイドレールに沿わせて上方へ開き、全開位置では折り畳まれた状態で、開口部直上に垂直に立てられてロックされる構造であった。動力は電動ウインチで、下部扉下端両側のガイドローラーに固定された左右1対のワイヤーを、それぞれ一旦船尾開口部上縁両端で、船尾扉ヒンジよりもやや高い位置の船体に固定した左右1対の滑車で反転し、上部扉下端両側の滑車で再度反転したのち、船橋楼甲板より1層上の後部操縦室屋上より両翼に新設した入渠甲板下に設置した左右1対の滑車を通して、船橋楼甲板上の左右2台の電動ウインチに巻き込まれる仕組みであった。また船内軌道が船尾扉の敷居を越える部分には、水密性確保のため電動油圧式の跳上げレールが設置された。なお、扉の大型化により、扉閉鎖の最終段階で、船尾扉を内側から引き寄せて、船体側に付けたゴムパッキンに船尾扉を密着させて水密性を確保する油圧式“締付け装置”が、十和田丸(初代)の4個から6個に増やされた。1958年(昭和33年)7月に第六青函丸に、1958年(昭和33年)10月に第七青函丸に、1959年(昭和34年)5月には第八青函丸にそれぞれ船尾扉が設置された。これにより車両格納所容積も総トン数に加算され約5,800総トンとなり、車載客船なみに塗り分け線を下げ、外舷上部も白く塗装された。洞爺丸事件から約4年を経て、ようやくフルサイズの船尾水密扉が完成、これが後の津軽丸型の油圧トルクヒンジ式の船尾扉へと発展してゆくことになる。なおこの船尾扉設置により車両積載数はワム換算46両から43両へ減少した。車両甲板下は8枚の水密隔壁で区切られていたが、そのうちボイラー室、機械室、車軸室、操舵機室の各水密区画間3ヵ所には、車両甲板まで上がらなくても通行可能な手動の水密辷戸が装備されていた。しかし、宇高航路で1955年(昭和30年)5月に発生した紫雲丸事件の経験から、機械室前後の2ヵ所には、浸水等による交流電源喪失時でも操舵室からの遠隔操作で開閉可能な、蓄電池で駆動する直流電動機直接駆動方式水密辷戸が装備された。後部デッキハウス頂部と船楼甲板に水密辷戸動力室が設置され、動力室内の直流電動機の回転を、自在継手や傘歯車で接続されたされたロッドで延々と船底の水密辷戸まで伝達し辷戸を開閉する構造で、十和田丸(初代)と同等品であった。また、石炭焚き蒸気船のボイラー室での過酷な労働環境改善のため、1959年(昭和34年)8月には第十二青函丸、1960年(昭和35年)9月には第七青函丸にストーカーが装備されたほか、この時期までに第六青函丸、第八青函丸を除く全ての石炭焚き車両渡船にストーカーが装備されたが、これら2隻は終航まで手焚きで運航された。なおこれらW型戦時標準船4隻は、津軽丸型各船の就航とともに順次引退していった。第1船。鋼材節約のための過剰な軽量化で船体が計画より浮き上がってしまい、車両積み込み時に船体の横傾斜が過大となり、車両の積み込みができないことが竣工間際に判明、第3船艙を深水タンクに改造して海水を入れ、車軸室に川砂利を積載して計画喫水を確保した。また主機には陸軍特務船用の3,000軸馬力の日立製作所製衝動タービンを流用したが、このタービンは22kg/cm²、330℃という高圧高温の蒸気用で、これを16kg/cm²、280℃の蒸気で、2,250軸馬力に落として使用したため、効率の悪い運転となった。更に、海軍監督官の意向で、船員の居住区画も徹底的に簡易化された。第四青函丸までは機関部員居室は車両甲板下第1船艙第二甲板に、甲板部員居室は部分甲板に、それぞれ各職種別に1名~10数名の2段寝台室を充てていたが、第二甲板廃止を受け、これら船首部の普通船員居室は全廃され、船橋楼甲板の甲板室内の畳敷き大広間に集約され、雑魚寝となった。このため、従来この部分にあった1人個室の機関部・事務部高級船員居室は廃止され、更に1層上の遊歩甲板の1人個室の甲板部高級船員居室も廃止され、畳6畳敷きの高級船員居室が造られた。当初、海軍監督官は船長も含めた全高級船員のここでの雑魚寝を要求してきたが、青函航路の実情を余りにも無視したものであったため、これでは暗号通信用の暗号書保管に責任が持てない、と反論し、暗号書保管のための“機密室”を設置し、ここにソファーを入れ、その管理責任者として船長と機関長がここを共用することとした。第2船。工期116日でW型船建造期間最短記録を樹立した。船長は遊歩甲板に、機関長は船橋楼甲板にそれぞれ個室を持った。それ以外の高級船員は遊歩甲板の大部屋の2段寝台を使用した。操舵手、その他の甲板部員、機関部員、事務部員は、それぞれの大部屋を船橋楼甲板に持ち、2段寝台を使用した。更に、船橋楼甲板には2段寝台の海軍警戒隊員室を設けた。この船員室のスタイルは第十一青函丸まで踏襲された。本船以降はボイラーの 過熱器が省略され、飽和蒸気使用のため4時間30分運航は困難となった。終戦時、大破、座礁していたが、修復され1947年(昭和22年)2月、デッキハウス船として復帰した。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷前側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。第3船。本船から、海軍警戒隊の居室を遊歩甲板に上げたため、遊歩甲板室が後ろへ延びた。本船から、船首砲架が取り付けられた。終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第八青函丸の2隻だけであった。しかし、1945年(昭和20年)8月30日に函館港北防波堤に衝突し、3ヵ月間休航した。また客船不足解消のため、1947年(昭和22年)9月にデッキハウスが造設され、以後客載車両渡船となった。このときボイラー4缶から5缶への増設工事も施工されたが、左舷前側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。第4船。本船から、資材削減で煙突の長さが約1/4短くなり、船尾両舷に爆雷投下口が設置された。終戦時稼働できた車両渡船は、本船と第七青函丸の2隻だけであったが、1945年(昭和20年)8月30日の第七青函丸の函館港北防波堤衝突事故の休航からようやく復帰した同年11月28日、今度は本船が青森第1岸壁で貨車積み込み中、ボイラー室船底のビルジに留意せずヒーリング操作を行いその場に沈座し、1946年(昭和21年)1月1日浮揚後、船楼甲板に木製のデッキハウスが設置され、客載車両渡船となった。後年、これは鋼製のデッキハウスに更新されている。また、1948年(昭和23年)1月にはボイラー4缶から5缶への増設工事が施工されたが、左舷前側への増設のため、煙突は左舷2本右舷1本の計3本となり、第十一、第十二青函丸とは逆になった。終航直後の1964年 (昭和39年)12月3日、函館港外で、貨車投棄試験を行った。このときは、転動テコ使用による人力での投棄や、船楼甲板のキャプスタンに掛けたワイヤーで引き出す方法が試験された。この試験が1965年 (昭和40年)9月4日の初代渡島丸終航直後の水中傘による貨車投棄試験へとつながった。終航後に船体は関西の某造船所にて浮き桟橋として使用されていたと言われている。第5船。浦賀で竣工し、横浜から函館への回航途中、アメリカ潜水艦の攻撃を恐れ、陸岸に接近して航行中、暗礁に乗り上げて沈没した。青函航路に就航する前であった。第6船。就航はしたものの、わずか1カ月半で沈没した。第7船。ほぼ完成状態で終戦を迎え、戦後竣工した。先に就航したW型戦時標準船の運航実績から、ボイラー4缶では定時運航できないことが実証されたため、計画段階よりボイラー5缶で建造された。これに伴い煙突も右舷2本左舷1本の計3本となった。 就航直後より進駐軍専用船となり、1946年(昭和21年)9月デッキハウス造設、占領終了直前に進駐軍専用船指定解除された。洞爺丸台風で沈没。二重底化工事完成直後の沈没で、船体が三つに破断していた。乗組員全員死亡のため、沈没までの船内状況は不明であったが、たまたま近くで錨泊中の 十勝丸の船員が、激しいピッチングの後、船内消灯、その直後に、左舷から捩れるような形で船首が立ち上がり、船尾から沈む第十一青函丸を目撃していた。沈没推定時刻の20時頃は、十勝丸でも既に車両甲板への海水滞留と機関室への海水流入は始まってはいたが、函館湾内で沈没した他船に比べても、2〜3時間も早く、急激に沈没したことから、船体破断と、その原因としての二重底化工事との関連についても疑われたが、当時の調査では結論は得られなかった。第8船。建造中に終戦を迎え、竣工は戦後であった。第十一青函丸同様、ボイラーは5缶で煙突は右舷2本左舷1本の計3本であった。船員居室の部屋割は高級船員室の一部に相部屋は残ったが、概ね第四青函丸の水準に戻り、更に第四青函丸ではあった車両甲板下への船員居室設置もなくなった。終戦直後の青函航路の旅客輸送能力不足を補うため、建造中にデッキハウスが造設されたが、就航時から占領終了直前まで進駐軍専用船であった。1957年 (昭和32年)6月には、二重底化、デッキハウス撤去、車両甲板放水口設置工事を行い、車両渡船となった。

出典:wikipedia

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