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田村丸

田村丸 (たむらまる) は、日本鉄道が青函航路向けに1906年(明治39年)10月、イギリス、スコットランド、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に発注し、1908年(明治41年)に竣工した2隻の貨客船の第2船である。帝国鉄道庁→内閣鉄道院→鉄道省が青函連絡船および稚泊連絡船として運航した。着工前の1906年(明治39年)11月1日に鉄道国有法が施行されたため、帝国鉄道庁がこの建造契約を継承した。姉妹船の比羅夫丸は日本初の蒸気タービン船で、本船は2番目であった。船名は当時の日本鉄道の社長曾我祐準の「歴史的人物の名前より」との方針で坂上田村麻呂よりとられた。1891年(明治24年)9月1日,日本鉄道によって上野-青森間が全通し、翌1892年(明治25年)8月1日には北海道炭礦鉄道によって岩見沢-室蘭間が開通するにおよび、当時青函航路を運航していた日本郵船は1893年(明治26年)2月、青函航路の延長として、函館-室蘭間航路を開設した。ここに東京-札幌間は、この“三港連絡航路”を介して鉄道で結ばれ、事実上この航路は“鉄道連絡船”となり、輸送量は急増した。更に1904年(明治37年)10月15日には北海道鉄道によって小樽-函館間が開通し、輸送量は一段と増加した。しかし日本郵船による青函航路の運航体制はこれに十分対応できず、客貨共に積み残しがしばしば発生したため、日本鉄道は1902年(明治35年)頃から、青函航路直営化の検討を始め、1905年(明治38年)には、今後20年間は他の追従を許さない1100~1500総トン、航海速力15ノット以上の高速船の建造を決定した。しかし、この程度の大きで15ノット以上となると、従来の蒸気レシプロ機関では機関室が過大となるため、既にイギリスの海峡渡船で実績を上げていた蒸気タービンを採用することとした。こうして、日本鉄道は1906年(明治39年)10月、イギリス、スコットランドの、ウィリアム・デニー・アンド・ブラザーズ社に、横浜引き渡し、速力18ノット以上という条件で、2隻の1500総トン級の海峡渡船を発注した。その直後の11月1日に鉄道国有法が施行され日本鉄道は国有化され、帝国鉄道庁がこの建造契約を継承した。船体の上甲板に相当するオーニングデッキ(被覆甲板)には、甲板室があり、煙突より前が1等区画で、日中は椅子席、夜間は1段または2段寝台として使われた。その後ろに1等食堂があった。煙突より後ろは2等区画で、日本への回航後に、ここにあった2等食堂は畳敷きの2等雑居室に改装され、その後ろには2等寝台室があった。1層下の正甲板船尾側は3等船室で、いわゆる“蚕棚式”2段雑居室であった。船体中央部のボイラー室には舶用スコッチ缶が2缶、その後ろのタービン室には、船体中心線上に高圧タービンが1基、その後方左右には高圧タービンで使った蒸気を再利用する低圧タービンが1基ずつ配置され、各タービンからはそれぞれプロペラ軸が出て、船尾水線下の中央と両側の計3基のプロペラに直結で繋がっていた。両側のプロペラは逆転できたが、中央のプロペラは逆転できなかった。しかも両側のプロペラも互いに逆回転させることができなかったため操縦性は良くなかった。舵は中央のプロペラ直後の1枚だけであった。1等船室、2等船室の甲板室の屋根の両舷には、それぞれ2隻ずつ端艇が並び、端艇甲板と呼ばれた。この甲板の船首端には船長室と一等航海士室が入った甲板室があり、そのすぐ後ろには特別室が入った独立した甲板室が設置されていた。船長室の屋上の甲板は、前方と両舷に張り出して視界を確保し、磁気コンパス、舵輪、伝令器、海図机が設置され、航海船橋とされた。しかし、当時のドーバー海峡渡船に倣い、その周囲と天井には、風雨除け、日除けのキャンバス(帆布)を固定する骨組しかなかったため、津軽海峡の実情に合わず、就航後約1年で、板張りの天井を設け、前部中央のみガラス窓とし、1912年(大正元年)以降、全周の板張りとガラス窓化が行われた。塗装は、黒色の船体に赤い飾り線(比羅夫丸は白…区別のため)。黄樺色の煙突。赤色の「工」のマーク。これは比羅夫丸・田村丸の就航に合わせて制定された。本船就航の1908年(明治41年)4月4日から、2往復運航となった。当時の発着時刻は以下のとおりであった。就航当初は青森・函館共に岸壁からの直接乗降ではなく、沖留めでハシケを使って連絡していたため、実際には6時間かかっていた。1910年(明治43年)12月の函館木造桟橋建設と、1915年(大正4年)6月の函館桟橋駅設置による、桟橋上への列車乗り入れは、従来2~3時間を要した船車接続時間を1時間に短縮する画期的な効果を上げた。さらに、1923年(大正12年)12月には青森でも建設中の車両渡船用岸壁の先行使用が始まり、危険なハシケ利用は解消された。比羅夫丸型2隻は、冬季は交代で入渠するため、就航一冬目は1船1往復に減便された。 しかしこれでは、鉄道連絡船の使命を全うできないため、就航二冬目半ばの1910年(明治43年)2月1日より、帝国海事協会から青函間4時間運航可能な船ということで、義勇艦「うめが香丸」(3022総トン、速力21ノット、1908年建造)を約1年間傭船して、通年2~3往復を維持した。その後も青函航路の輸送量の増加は続き、1925年(大正14年)の翔鳳丸型車載客船就航まで雑多の傭船で対応した。鉄道院以外の船舶で青函航路に傭船として就航した船は16隻にのぼり、鉄道院の他航路の連絡船では、舞鶴-境航路の「第二阪鶴丸」や関釜航路の「壱岐丸」も青函航路に一時期就航した。

出典:wikipedia

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