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居正

居 正(きょ せい)は清末民初の政治家・革命家。中国同盟会以来の革命派人士で、中国国民党(国民政府)では反共右派として知られる。旧名は之駿。字は覚生。号は梅川。塾教師の家庭に生まれる。1899年(光緒25年)に院試で第1位をとったが、光緒27年(1901年)の郷試では落第した。1905年(光緒31年)9月、日本に留学し、1907年(光緒33年)に法政大学速成科を卒業する。入学の際に、郷土の先輩格である陳乾から宋教仁に紹介され、中国同盟会に加入した。1907年(光緒33年)夏、日本大学本科法律部に入学した。まもなく、雲南省河口での孫文(孫中山)らの蜂起に参加しようと帰国を図る。しかし途中の香港で蜂起の失敗を知らされ、シンガポールに赴いた。そこで胡漢民・汪兆銘(汪精衛)らが主宰する『中興日報』で記事・論文を執筆する。これ以後も、南洋各地で革命派宣伝工作に従事した。1910年(宣統2年)に孫文の命により居正は帰国し、以後、漢口で同盟会の工作に従事する。同年10月、武昌起義が勃発すると、居は湖北軍政府に加入し、都督黎元洪を補佐して政府組織の事務に従事した。12月、居は湖北代表として、南京で開催された各省都督府代表会議に出席している。1912年(民国元年)1月、孫文の臨時大総統就任とともに、居正は内務次長(代理内務総長)に就任した。しかし袁世凱が後任の臨時大総統となると、居は辞任した。その後、宋教仁率いる国民党で活動している。1913年(民国2年)3月に宋が暗殺されると、居は孫の下に戻り、二次革命(第二革命)に参加する。居は、上海呉淞砲台総司令として戦ったが、敗北して日本に亡命した。日本亡命後の1914年(民国3年)6月、孫文が組織した中華革命党に居正は加入し、党務部長に任命された。1915年(民国4年)冬、孫の命により居は大連に戻り、反袁世凱活動を秘密裏に展開する。護国戦争(第三革命)勃発後の1916年(民国5年)5月、青島で中華革命軍東北軍を組織して総司令となり、反袁の軍事活動を山東省で展開した。袁世凱死後、居正は孫文の護法運動に参与する。1919年(民国8年)10月10日、中華革命党が中国国民党に改組されると、居は総務部主任兼軍事委員に任命された。1922年(民国11年)5月、広州軍政府で内務部長に任命される。1924年(民国13年)1月、国民党第1回全国代表大会で、中央執行委員に選出(その後、常務委員に選出)された。しかし居は孫の三大政策、特に聯ソ聯共路線に反発し、突然広州を離れ、上海に引きこもってしまう。1925年(民国14年)3月12日に孫文が北京で逝去すると、居正は北京へ急行し、喪に服した。しかし、上海で章炳麟(章太炎)と「辛亥倶楽部」を組織するなど、国民党の聯共聯ソ路線には依然として服さなかった。同年11月、居は、鄒魯・謝持・林森らと北京の西山碧雲寺で独自に国民党第2回全国代表大会を開催し(西山会議)、三大政策反対と反共を公開で宣言した。その後の居正は、蒋介石と対立的な政治姿勢を保っていた。しかし、1931年(民国20年)の満州事変(九一八事変)を経て、国民党内は大同団結となり、居も蒋と和解する。居は国民党第4回全国代表大会で中央執行委員、常務委員に選出され、司法院副院長に任命された。1932年(民国21年)5月、居正は司法院院長に昇格した。以後、1948年(民国37年)6月に辞任するまで、国内法制整備に尽力した。司法院院長辞任後、居正は監察院監察委員に選出された。1949年(民国38年)11月に台湾へ逃れた後もこの職にとどまっている。1951年(民国40年)11月23日、台北で病没。享年75。

出典:wikipedia

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