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鼻節神社

鼻節神社(はなぶしじんじゃ)は、宮城県宮城郡七ヶ浜町にある神社。式内社(名神大社)で、旧社格は村社。松島湾と仙台湾を分ける七ヶ浜半島の東端、仙台湾側に面した垂水山(たるみずやま)に鎮座する。海上安全の神徳により航路の守り神として信仰されている。元文3年(1738年)記の『鼻節大明神の御縁起』によれば、鼻節神社の社名は猿田彦命の鼻が高く、節があったことに由来するという。同様の記述は『鹽社由来追考』や『鹽竈社神籍』などの鹽竈神社社誌にも見られる。『鹽竈社縁起』では「鹽竈六所明神」で、猿田彦命、事勝国勝命、塩土老翁、岐神、興玉命、太田命の同体異名の6座であるとするが、この説によれば『延喜式内陸奥一百座』が指摘するように、鹽竈神社祭神の塩土老翁神と鼻節神社祭神の猿田彦命は同一の神であることになる。猿田彦命以外の神を祭神とするものもある。享保18年(1733年)に完成した『神名帳考証』は木花開耶姫と埴安神とし、その理由を「鼻」は「花」と言う言葉に通じて木花開耶姫を指し、「節」は「泥(うき)」の音に通じて埴安神を指すとする。もっとも、同書を基に書かれた『陸奥式社考』は祭神欄を空白にしており、それはこの説に疑義があったからではないかとの考察がある。『日本風土記』においては、祭神は多力雄神となっている。安永元年(1772年)の『封内風土記』巻之四によれば、この説は地元民の話とは合わないと述べており、享保4年(1719年)の『奥羽観蹟聞老志』巻之七にも同様の記述がある。また、万延元年(1860年)の『新撰陸奥風土記』は、『日本風土記』において祭神が多力雄神とされているが、現在は多力雄神、猿田彦神、和多都美神の3座であると述べている。社伝によれば、鹽竃神社と同じという神が神代に存し、御舟にて鼻節浜に上陸、孝安天皇の時代に「ほうが崎」に鎮座があり、舒明天皇2年(630年)に初めて圭田(祭祀用として天子から賜る田)43束を奉り神事を行ったという。その後光仁天皇の宝亀元年(770年)、ほうが崎は風が強く、度々社殿が破損したので現在の鎮座地である垂水山に移ったとされる。『続日本後紀』の承和11年(844年)8月17日条では、霊験ありとして無位から従五位下へ神階を陞叙せられた。延長5年(927年)の『延喜式神名帳』では「陸奥国宮城郡 鼻節神社 名神大」と記載され名神大社に列した。なお、平安時代中期成立の『枕草子』に出てくる「はなふちの社」は当社を指し、その杜が「活田の社」や「龍田の社」などの名社と共に数えられていることから、都人にも知られ朝野の崇敬を受けた神社であったとする説がある。さらに『朝野群載』には、神事の過穢が原因で祟りがあったため、鼻節神社に使者を遣わし、中祓を科して祓え清めるべしとの康和5年(1103年)6月10日付けの神祇官奏上が記載されているが、この奏上によって都から神官が下向して祓い清めたという。鎌倉時代に入り、伊沢家景が源頼朝から陸奥留守職に任じられ、伊沢氏は家景の子である家元の代より「留守」姓を名乗るようになる。以後、留守氏は鹽竈神社の管理権を掌握し、鹽竈神社の別当である塩竈神宮寺も支配したが、同時期に当社は留守氏家臣にして花淵城主でもあった土豪花淵氏累代による尊崇があり、社殿の造営や祭事の興行がしばしば行われていたという。その後、多賀国府も有名無実となって花淵氏も当地を去ったために当社も衰運を辿り、正確な時期は分からないが遂に鹽竈神社の末社とされた。仙台藩四代藩主綱村が元禄6年(1693年)に編纂させた『鹽竈社縁起』にも当社が鹽竈神社の末社であると記載されている。明治元年(1868年)に社殿を修復した際、境内において、陸奥国府である多賀城で使用されていた国府厨印(こくふくりやのいん)が発見された。明治5年(1872年)5月には近代社格制度において村社に列し、明治40年(1907年)3月には神饌幣帛料供進社に指定された。また旧来、鹽竈神社の末社と称し、『別当法蓮寺記』や『鹽社由来追考』などの鹽竈神社社誌にもその14末社の一つとして記載されてきたが、明治10年(1877年)3月に改めて国幣中社志波彦神社鹽竈神社の摂社に定められた。仙台・宮城デスティネーションキャンペーン(2008年10月1日-12月31日)に合わせて、町が当神社を含めたガイドブックを作るなどして観光に力を入れていたところ、同時期に連載・放送された人気漫画およびアニメ『かんなぎ』に出てくる神社のモデルが当神社ではないかとファンが推察し、参拝客が5倍にまで増加した。平成21年(2009年)の初詣の時期には、日本各地のみならず、香港からもファンが参拝に訪れていた。境内には八幡神社、大根神社、山神社、三月田稲荷神社、天神社がある。当社周辺には、「祭田」、「正月田」、「二月田」、「三月田」等の地名があり、これらは旧神田や社領の遺名であるとされ、他にも「社敷場」という地もあり、そこや「祭田」は年始節句など神事の田であったと推定されることからも神社の盛大を偲ぶに足るものがあるという。なお、「正月田」は東宮浜新田原囲本作にあったと言う。

出典:wikipedia

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