山手殿(山之手殿とも。やまのてどの、天文18年(1549年)? - 慶長18年6月3日(1613年7月20日))は、戦国時代から江戸時代前期にかけての女性。真田昌幸の正室。永禄7年(1564年)頃に武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に嫁ぐ。これは永禄9年(1566年)に誕生する嫡子・信之の前に生まれた女子(村松殿)がいるため、昌幸と山手殿の結婚は遅くてもこの頃と推測されているためである。昌幸が甲斐武田氏に仕えていた際には人質として新府城にあり、天正10年(1582年)3月に織田信長による甲州征伐で武田氏が滅亡した際には九死に一生を得て新府城から脱出して上田へ帰還した。慶長5年(1600年)8月、関ヶ原の戦いの直前に大坂にいたため、石田三成の人質となって大坂城に抑留されるが、真田家臣・河原綱家の機転により逃れて上田に帰還した。ただ、人質とは形式だけの事で、慶長5年8月6日付で三成が昌幸に宛てた書状で「御内儀も大坂へ入り候、何事もなく候、宇多河内父子(宇多頼忠・頼重)も当城(佐和山城)留守居として今日当地へ参り候」とある事からも明らかである。関ヶ原終結後の同年12月13日、昌幸・信繁親子は16人の家来と信繁の妻女を伴って、九度山に幽閉されることになったが、山手殿は信之に引き取られ、上田に留まった。この後、出家して名を寒松院と改める。慶長6年(1601年)頃から大輪寺で生活を始める。慶長18年(1613年)6月3日に死去。夫の昌幸の死からちょうど2年後の事であった。法名・寒松院殿宝月妙鑑大姉。墓所は大輪寺(長野県上田市)、大林寺(長野県長野市)。山手殿と昌幸の間に生まれた確実な子女は、長女の村松殿、嫡子の真田信幸(信之)、次男の真田信繁(幸村)だけであり、他の子女に関しては不明である。山手殿の出自については、以下の説がある。いずれにしても研究者によって様々な意見があり、決定的といえる証拠もない(信頼に足る同時代の歴史史料がない)。
出典:wikipedia
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