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林虎

林 虎(りん こ)は中華民国の軍人。中国同盟会以来の革命派人士で、後に旧広西派(旧桂系)の軍人となった。旧名は蔭清。字は陰青。父は漢族、母はチワン族(壮族)である。父の林寿裳は秀才で江西省に赴任したことから、林虎は父母とともに江西省に移り住んだ。林虎は、15歳の時に江西武備学堂に入学し、李烈鈞、李思広らと同期で学んだ。しかし在学中に、林や李思広ら4人は、学外の悪童4人と喧嘩したため卒業直前に学堂を辞めなければならなくなっている。その後は、李思広の知人である江西常備中軍統領郭人漳の下で任用された。1905年(光緒31年)、郭が広西省へ転任したことから、林虎もこれに随従している。翌年、黄興が桂林で組織した中国同盟会支部において、林は、郭や蔡鍔らとともに加入した。1907年(光緒33年)、やはり郭に随従して広東省に転任している。辛亥革命では、林虎は革命派の軍に参加し、南京で陸軍部警衛混成団団長に任命された。1912年(民国元年)、林虎は江西都督李烈鈞の下に移り、江西陸軍第1師の旅長に任命された。翌年、李烈鈞が袁世凱打倒のための二次革命(第二革命)に参加すると、林は江西討袁軍右翼総司令としてこれに従う。林らは緒戦で善戦したが、最後は物量で勝る北京政府軍に敗北し、林は日本に亡命した。同年11月、林虎は東京で孫文(孫中山)と対面し、中華革命党にも参加した。また、李烈鈞・柏文尉・黄郛らと法政学校を創立し、寺尾亨を校長として擁いた。さらに、大森に「浩然廬」を創設し、日本に亡命してきた革命派士官を受け入れる機関とした。1914年(民国3年)、林は章士釗・李根源らと欧事研究会を組織した。その後、熊克武らとともにシンガポールへ向かい、黄興らと反袁世凱活動に取り組んだ。その後、林虎は鈕永建とともに広西省へ戻り、広西将軍陸栄廷との交渉を持つ。これにより、陸の反袁決起に手応えをつかんだ林虎は、雲南の蔡鍔・李烈鈞らと連絡をとっている。1915年(民国4年)12月、雲南省から護国戦争(第三革命)が勃発し、陸も後にこれに呼応した。林虎は、1916年(民国5年)4月に岑春煊が肇慶で成立させた両広護国軍都司令部に加入し、護国軍第6軍軍長に任命された。そして、陸栄廷に従って広東将軍竜済光の討伐に貢献した。同年9月、林は高雷鎮守使に任命されている。翌年、林虎は陸栄廷から広東陸軍第2軍軍長に任命された。そして、同年11月からの竜の反攻に対処し、1918年(民国7年)春、竜の軍を撃滅した。この功績により、林虎は肇羅陽鎮守使に任命されている。同年10月、広州軍政府が改組されて7総裁による集団指導制となると、岑春煊・陸栄廷ら旧広西派(旧桂系)が主導権を握り、林は軍政府陸軍部次長に就任した。しかし1920年(民国9年)、孫文を支持する陳炯明軍により旧桂系は敗北し、林も下野した。なおこの時、林虎は孫文からの内応の誘いを蹴っている。以後も反孫文の活動に従事し、1922年(民国11年)には、孫文に反した陳炯明を補佐して北京政府との連携工作に従事した。1924年(民国13年)5月には、北京政府から広西督弁にも任命されている。しかし1925年(民国14年)、陳炯明は中国国民党の東征を受けて壊滅し、林も軍を撃破されて下野した。その後は、かつての部下であった李宗仁と連絡を取りつつも、政界への本格復帰はならなかった。1937年(民国26年)、国民参政会参政員となる。1947年(民国36年)には、立法院立法委員に当選した。中華人民共和国成立後も林虎は広西に留まっている。広西チワン族自治区政治協商会議副主席、中国人民政治協商会議全国委員会常務委員などを歴任している。1960年(民国59年)2月8日、南寧で病没。享年74(満72歳)。

出典:wikipedia

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