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ヴァロワ=ブルゴーニュ家

ヴァロワ=ブルゴーニュ家(仏:maison de Valois-Bourgogne)は、フランスの王家ヴァロワ家の分枝の一つで、ブルゴーニュ公国を統治した一門である。単にブルゴーニュ家と言った場合にこの家系を指すことも少なくないが、他にカペー家系ブルゴーニュ家(その分家からポルトガル王家のブルゴーニュ家が出ている)や、ヴァロワ=ブルゴーニュ家以前にブルゴーニュ伯の家系であったアンスカリ家(その分家からカスティーリャ王家のブルゴーニュ家が出ている)を指す場合もあるので、注意を要する。ヴァロワ=ブルゴーニュ家はヴァロワ朝のフランス王ジャン2世の末子フィリップ豪胆公に始まる。カペー家系ブルゴーニュ家最後の男系当主フィリップ1世が1361年に嗣子無くして没したことにより、その公領はフランス王領に併合されるが、時のフランス王ジャン2世は、末子フィリップにブルゴーニュを下賜した。これがヴァロワ=ブルゴーニュ家の誕生である。さらに、豪胆公の兄でジャン2世の長男であるフランス王シャルル5世が、豪胆公とフランドル女伯マルグリット3世と結婚させたことにより、フランドル、ブルゴーニュ伯領(フランシュ・コンテ)、アルトワを獲得した豪胆公は一躍富裕な諸侯となった。これを梃にした豪胆公はネーデルラントに進出し、当地を支配したヴィッテルスバッハ家と巧みに縁組を重ねることで急速に勢力を拡大させる。1380年にシャルル5世の息子で新たにフランス王になったシャルル6世の妃にヴィッテルスバッハ家のイザボーを迎えたのも、ネーデルラント政策の一環であった。そして、ヴァロワ=ブルゴーニュ家が統治したブルゴーニュ領ネーデルラントが今日のベネルクス3国の原型となるのである。豪胆公の勢力拡大は当然のことながらフランス宮廷内で反発を招き、シャルル6世の弟オルレアン公ルイの許に対立する貴族が結集した。これをオルレアン派と呼ぶ。他方、豪胆公の勢力をブルゴーニュ派と呼ぶ。豪胆公の生存中はそれほど激しくは対立しなかったが、1404年に豪胆公が死去し、息子ジャンが継いでからは事態が悪化する。ニコポリスの戦いの勇名から「無怖公」の異名を得たジャンは、フランス宮廷での主導権を巡って(シャルル6世は精神を病んでいた)、伯父ルイと血みどろの抗争を繰り広げた。そして1407年、ルイを暗殺することで主導権を獲得した。オルレアン派はルイの息子シャルル・ドルレアンと岳父アルマニャック伯ベルナール7世を中心に再結集し(アルマニャック派と呼ばれる)、抗争を続けていく。これを好機と捉えたのがイングランド王ヘンリー5世である。ヘンリー5世はブルゴーニュ・アルマニャック両派に工作を画策しつつ、ノルマンディーに軍を進め、1415年にアジャンクールの戦いでアルマニャック派を中心としたフランス軍を撃破し、シャルル・ドルレアンを捕虜とした。当初は傍観の構えを見せていた無怖公であったが、自領がイングランドに荒らされるのを見て、アルマニャック派との和平を考えるに至った。そして1419年、新たにアルマニャック派の首領となったドーファン(王太子)シャルルとの会見をモントローに臨むが、この地でアルマニャック派の朗党に惨殺された。無怖公の跡を継いで新たにブルゴーニュ公になったのが、フィリップ善良公である。豪胆公、無怖公の2代はあくまでもヴァロワ家の一員、またフランス人としての意識が強かった。それに対して、善良公はフランドル人の意識が強く、この公の許でネーデルラントの統合が進展する。父を殺された善良公は、その報復として1420年にヘンリー5世とトロワ条約を結ぶ。これは王太子シャルルを廃嫡し、ヘンリー5世にフランス王位継承権を与える内容であった。念願のフランス王位継承権を手に入れたヘンリー5世だが、1422年にシャルル6世に先立って死去した。シャルル6世も後を追うように死去し、王位はヘンリー5世の幼い遺児ヘンリー6世が継ぐことになった。その際、善良公はフランスの摂政を求められたが、これを固辞して帰国した。摂政にはヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンが就いた。この頃から善良公とイングランドとの関係は微妙なものとなる。原因はネーデルラントを巡る問題である。善良公の従妹であるジャクリーヌ・ド・エノーは、双方にとって従弟にあたるヴァロワ=ブルゴーニュ家傍系のブラバント公ジャン4世と結婚していたが、領地争いで頼りにならないと悟るとジャクリーヌは結婚を無効にして、ベッドフォード公の弟グロスター公ハンフリーと再婚した。そして、エノー、ホラント、ゼーラントの相続権を主張して、新しい夫と共にネーデルラントに上陸し、同地への勢力拡大を狙う善良公と小競り合いになった。事態はすぐに収まったが、善良公はイングランドとの距離を置くようになり、逆に王太子側へ接近するようになる。王太子シャルルはフランス南部へ逃れ、父王死後はシャルル7世と称しており、善良公に盛んに工作を行っていたが、1424年のシャンベリーの協定で、シャルル7世・善良公双方の相互不可侵が確認された。善良公はいずれにも加担せず、その関心をもっぱらネーデルラントに向けた。そして巧みな外交政策でエノー、ホラント、ゼーラントの他、フリースラント、ブラバント、リンブルフ、ルクセンブルクを次々と獲得した。ネーデルラントのみに関心を向ける善良公に対して、ベッドフォード公は自分の従妹でポルトガル王ジョアン1世の娘であるイザベルを善良公の3番目の妃にすることで、同盟強化を図ろうとした(この結婚の際に金羊毛騎士団が設立された)。ポルトガル王家との婚姻は善良公に利益をもたらした。当時のポルトガルはイザベルの兄エンリケ航海王子の許で航海事業が発達していたため、毛織業の市場が拡大したばかりではなく、東方(オリエント)の産物も多数国内へもたらされたからである。逆にポルトガルには洗練されたフランドルの文化がもたらされた。日和見主義を採る善良公であったが、イザベルと結婚した1429年にそれを一変させる出来事が起きた。オルレアン包囲戦である。オルレアンの戦いにジャンヌ・ダルクが登場したことにより、フランス側は劣勢を一気に回復し、ランスにまで軍を進め、シャルル7世は名実共にフランス王としての戴冠を果たす。善良公は自らが参加しなかったものの、使節を送り和平を画策する。シャルル7世もそうであったが、ジャンヌ・ダルクは強硬姿勢を採り、独自に北方に軍を進め、1430年のコンピエーニュの戦いでブルゴーニュ軍の捕虜となった。ジャンヌと会見した善良公は、ジャンヌをイングランドに引き渡した。ジャンヌは1431年に火刑に処せられるが、善良公は完全にイングランドを見放していた。シャルル7世の長年の工作の成果が出てきたからである。それが一気に現れたのが、1435年のアラスの和平である。当初はフランス・ブルゴーニュ・イングランドの三者会談であったが、イングランド使節は早々に帰国し、フランス・ブルゴーニュのみの会談となった。この会談ではシャルル7世の懐刀とも言うべきアルテュール・ド・リッシュモンの工作が実り、シャルル7世と善良公の間に和平が成立したのである。内容は、ジャン無怖公殺害に関するシャルル7世側の謝罪、善良公1代限りの臣従免除、ピカルディとブローニュの獲得であった。フランス・ブルゴーニュ同盟の成立にベッドフォード公は憤死した。そしてフランス・ブルゴーニュ同盟の一環として、善良公とイザベルの嫡子シャルルとシャルル7世の娘カトリーヌの結婚式が1440年に行われた。ブルゴーニュに見限られたイングランドは各地で敗戦を重ね、1453年に百年戦争はフランスの勝利に終わった。この年はもう一つ重要な出来事が起きた。東ローマ帝国がオスマン帝国に滅ぼされたのである(コンスタンティノープルの陥落)。この出来事に西欧の君主が無関心だった中、善良公だけはコンスタンティノープル奪還を決意した。それが翌年に行われた「雉の宴」である。これは宴に生きている雉を出して、コンスタンティノープル奪還を誓うものだが、形だけに終わった。時代は中世から近世に移行していたからである。そして中世の終焉と共に、ブルゴーニュ公国は滅亡への道を進むことになる。1467年にシャルルが新たにブルゴーニュ公となった。それより6年前にフランス王となったルイ11世は中央集権化を目指し、国内の有力諸侯を次々と粛清したが、最大の目的はブルゴーニュであった。ルイ11世の謀略に対し、シャルルはランカスター家に代わってイングランド王家となったヨーク家のエドワード4世の妹マーガレットと結婚することで対抗した。もう一つは神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世への接近である。フリードリヒ3世の皇后エレオノーレはポルトガル王ドゥアルテ1世の娘でシャルルの従妹であったが、シャルルは王号の獲得、更には神聖ローマ皇帝位も狙っていたとされる。しかし、政策は成功しなかった。エドワード4世はルイ11世とピキニ条約で和平を結び、フリードリヒ3世からはのらりくらりと交わされたからである。唯一の成果はシャルルの一人娘マリーとフリードリヒ3世の嫡子マクシミリアン大公の婚約であった。政策がことごとく裏目に出たシャルルは、取りあえず飛び地になっているネーデルラントとブルゴーニュの間を埋めようとしたが、1477年にナンシーの戦いで戦死した。結果、ブルゴーニュはフランス領に、ネーデルラントはハプスブルク家領になった。その後、ブルゴーニュ公国の遺領を巡る争いがきっかけとなり、フランス王家とハプスブルク家の長きにわたる抗争が勃発する。

出典:wikipedia

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