特別操縦見習士官(とくべつそうじゅうみならいしかん)は、太平洋戦争(大東亜戦争)終盤の日本陸軍航空において、高等教育機関の卒業生・在学生中の志願者を予備役将校操縦者として登用した制度あるいは登用された者を指す。しばしば特操と略され、。1-4期生が養成され、1,2期生は特攻に動員されて多数の戦死者を出した。戦争末期の飛行機・ガソリン不足のため、3,4期生は十分な訓練を受けることができず、ために大部分が生き残った。。これにより陸軍では航空要員の急速な拡充が必要となり、中でも操縦者(パイロット)の育成は年度内に3000名、翌年度末までには2万名を目標とされ、。。特別操縦見習士官は、特別海軍飛行予備学生と似た制度で、航空消耗戦の要請に応えるために設けられ、高等学校・専門学校の卒業生、大学の卒業生、在学生を対象とした。が入隊し、4期で制度は終了した。2期生、3期生には1943年12月1日に一般の部隊に入営した学徒動員組から転科した者が多く、3期生には学窓から直接採用された者もいた。4期生は全員学生から直接入隊した。。これは高学歴者を優遇する海軍の予備学生制度が、大学生や専門学校生に人気であったため、優秀な人材を海軍に取られまいとする陸軍の苦肉の対抗策であったとされる。。1期生、2期生は特攻に動員され、多数の戦死者を出した。その後は、飛行機・ガソリンが不足したため、3期生は一部しか飛行訓練を終えることができず、4期生は飛行機の操縦桿を握ることができなかった。しかしそのために却って大部分が生き残った。3期生、4期生のうち、約420名は南方要員となった。その大多数は、陸軍熊谷飛行学校に入校し、その分校の軽井沢教育隊(第2地上準備教育隊)や野辺山教育隊でグライダーによる訓練を受けた後、1944年9月に南方行き輸送船団の船で門司を出航した。同年12月末にシンガポールに到着し、翌第1945年1月から第55航空師団隷下のジャワの第1練習飛行隊、マレーの第2練習飛行隊に分かれて高等練習機による飛行訓練を受けた。1945年4月末、戦局が急迫してくると、飛行訓練は中止され、練習用の旧式機も特攻用に転用されることになり、練習飛行隊は解散することになった。特操の隊員はシンガポールに再集結を命じられ、同地でその大部分が1945年6月1日付で操縦見習士官から兵科見習士官に転科となり、やがて南方軍の総司令部・各軍団の参謀部付となって情報任務に就くため、南方各地に配属された。
出典:wikipedia
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