武双山 正士(むそうやま まさし、1972年2月14日 - )は、茨城県水戸市出身(出生地は勝田市、現在のひたちなか市)で武蔵川部屋所属の元大相撲力士。最高位は東大関。本名は尾曽武人(おそ たけひと)。身長184cm、体重177kg。現在は年寄・藤島、得意手は突き、押し、突き落とし、巻き落とし、左四つ、寄り。趣味は釣り。独身。父親の尾曽正士(以下、父と表記)は茨城県相撲連盟理事長というアマチュア相撲の大御所でありアマチュア選手として国体に11回出場した経験も持っている。その息子である尾曽武人(以下、角界入りまで尾曽と表記)が後に冠した四股名「武双山正士」の下の名前の由来は父の名前にある。尾曽は元々相撲ではなく魚釣りやソフトボールを好んでいた。小学4年生の時に父に「相撲を教えてほしい」と頼んだ際は熱意の程を確かめたいと思った父から「腕立て伏せ30回毎日やり通したら教えてやる」と条件を出され、1か月やり通した尾曽は指導を受けることを許された。そうして父が指導の手腕を振るう「水戸尾曽相撲道場」においてその薫陶を受ける生活が始まり、まず自宅の庭には15尺土俵が、その側に檜製の鉄砲柱が用意された。稽古を始めてからほどなく、県内のわんぱく相撲大会に出場した尾曽はきわどい判定の末に1回戦で敗退してしまう。納得できなかった尾曽は自分の勝ちであるはずと不服を漏らしたが、父は毅然と「勝ったようにも見える。でも、誰が見ても勝っているというような相撲をとらなきゃダメなんだ」と一喝し、そこから稽古が本格化した。小学校4年生の頃の尾曽は身長143cmで37kgと他の子供と比べても小さくあぐらもかけないほど柔軟性に欠けていたという弱点を持っており、それ故人一倍の稽古が求められた。具体的に、柔軟体操から始まり、腕立て伏せ、四股踏み、バスケットボールの中にコンクリートを詰め込んだ特製のボールを抱え200回の屈伸運動、すり足で200m、そして四股を踏んだ体制でのうさぎ跳び。夕方4時半からは実際に廻しをつけ、土俵に上がっての稽古を行い、仕上げに自宅にタイヤを積み重ねた重さ100kgの「ぶちかましマシーン」を6m動かす稽古を30往復課された。朝稽古が終わった後の6時半には例として牛乳2本、野菜ジュース、チーズ4個、目玉焼き2個、ステーキ2枚、焼き魚たっぷり、生野菜とおひたしをボウルで山盛り、ご飯2膳という大人2人分食事を父親が作って用意し、食べきらなければ学校に行くことは許されなかった。昼食としても父が腕を振るって用意した二段重ねの特大弁当を持たされ、そればかりかカルシウム補充の目的でポケットには煮干しもねじこまれた。こうした相撲漬けの生活から相撲版「巨人の星」と呼ばれたが、5つ上の姉は「やっていることは、虐待と変わらない」と父の徹底指導を腹に据えかねて猛抗議したことがあり当の父も「できることなら投げ出してほしい」と内心で願っていたという。その中でも尾曽は決して投げ出さなかった。尾曽が徹底指導に音を上げなかった陰には土俵外で寧ろ尾曽に甘いとされる父の姿があり、父が尾曽との会話や団欒を惜しまなかったことも関係している。水戸農業高校3年の時には全国高等学校相撲選手権大会で優勝して高校横綱を獲得し、専修大学3年生の時には全日本相撲選手権大会で優勝してアマチュア横綱を獲得した。父は尾曽が小学4年生の時点で従業員50人ほどの規模を誇る建設会社を経営していた実業家でも知られ、相撲の英才教育に費やした時間と情熱について「息子に注ぎ込んでいたエネルギーを会社に向けていたら、今頃は二部上場していたかもしれない」と語ったことがある。その一方で父は一貫してメディアに出ることを嫌い、その理由を「今あるのは全て息子の努力に立脚したもので、私は環境を作っただけ」と話している。アマチュア時代は「東の尾曽(武双山)、西の山本(土佐ノ海)」と称され、高校時代、大学時代(武双山は専修大学、土佐ノ海は同志社大学)を通じて良きライバルであった。父親と約束していた「角界入りは学生横綱かアマチュア横綱になってから」の条件を達成したので、1993年1月には大学を3年で中退して角界入りした(専修大学からの角界入りは大凰に次ぐ。ただし、専修大学卒業者の初関取は片山)。アマチュア横綱の実績により、1993年1月場所、幕下付出で初土俵。2場所連続7戦全勝で十両に昇進、武双山と名を改めた。最初は武双海と名乗ったが、海という名は自分には似合わないとして武双山と変えたという。武双海の四股名で書いた色紙がごく少数ながら存在するらしく、貴重品であると大相撲中継の解説で話題となったこともある。その十両も2場所で通過、1993年9月場所には入幕を果たす。このときまだ相撲教習所の生徒であり、相撲教習所の卒業式に出た最初の幕内力士となっている。1994年1月場所は前頭3枚目に昇進し初の上位挑戦だったが、いきなり横綱曙を下して金星を獲得、そして三賞(殊勲賞)受賞。翌3月場所には小結を通り越して関脇に昇進、初土俵から8場所での関脇は当時の最速記録だった。あまりの昇進の早さに四股名が定着せず、ある日幕内の取組で武双山自身物言いがついた時の協議説明の際に、当時の九重審判部長(元横綱北の富士)に「尾曽」の四股名で間違えて呼ばれたこともあった。廻しの色には、自分のお気に入りの「銀鼠(ぎんねず)」を用いた(NHKの大相撲中継ではいぶし銀またはガンメタリックと言われることもあった)。「平成の怪物」と呼ばれ、当時時代を築きつつあった曙や貴乃花の好敵手として期待された。若乃花には最初2連敗したもののその後8連勝した(最終的な対戦成績は若乃花が上)。1994年9月場所では最後まで大関貴ノ花(当時、のち貴乃花)と優勝を争い、一歩及ばなかったが13勝2敗の優勝次点。翌11月場所は早くも大関取りの期待が膨らんだが、場所前左肩の亜脱臼のケガによる稽古不足が影響して、7勝8敗と初の負け越しとなった。小結に下がった1995年1月では初日に新横綱貴乃花を下し、連勝記録を30で止める殊勲の星を挙げたが、6日目の貴闘力戦で左肩を脱臼してしまい途中休場に追い込まれた。その後も左肩脱臼の再発や、足の親指の負傷など怪我が重なった事も有り、6年間大関候補と言われながらも伸び悩んでいた。それでも、1996年3月場所には関脇の地位で12勝の好成績を残しながら受賞者自体1年ぶりとなる技能賞を獲得するなど見せ場も多少存在した。2000年1月場所では、千秋楽に魁皇(当時関脇)を下して13勝2敗、関脇の地位で念願の幕内初優勝。そして翌3月場所でも12勝3敗の好成績を残し、ようやく遅咲きの大関昇進を果たした。しかし新大関の5月場所を腰椎椎間板障害で全休、大関角番でのぞんだ7月場所で4勝11敗と負け越し、大関在位2場所で関脇に陥落の屈辱を味わった(大関が2場所連続での負け越しで関脇への陥落になる)。現在の制度で考えうる最短在位である。それでも関脇に陥落した直後の9月場所で、千秋楽に勝利して10勝5敗、大関特例復帰規定(取り組み日数(現在は15日間)の三分の二(同・10勝)以上の勝ち星を挙げること。ただし、何らかの災害等のため増減が有った場合でも、その三分の二以上で計算する)に達して1場所で大関に返り咲いた。奇しくも師匠の武蔵川(元横綱・三重ノ海)も大関から関脇陥落後に、1場所で大関復帰を経験している。大関再昇進後の2001年3月場所には大関魁皇らと優勝を争い、千秋楽に魁皇に敗れたものの12勝3敗の優勝次点という好成績を残した。翌5月場所では、14日目に貴乃花を巻き落としで下す(詳細は後述)相撲も見せ、自身5年ぶりの夏場所での勝ち越しを得る。この取組で貴乃花は右膝半月板を負傷し、千秋楽に強行出場して優勝したものの、翌7月場所からの7場所連続休場を余儀なくされた。しかし、5月場所以降の武双山は最高の成績でも10勝5敗に終わり、優勝争いに参加することは殆ど無い状態だった。力士晩年には途中休場や皆勤負け越しも記録して大関を保つのがやっとで、大関角番と角番脱出の繰り返し、という土俵が続いた。素質からは横綱を期待する声もあったが、左肩脱臼を繰り返すケガなども有って果たせなかった。なお2003年11月場所まで大相撲には「公傷制度」(本場所中に土俵上の大怪我で翌場所全休しても、その翌々場所は翌場所と同じ地位に留まれる制度)が存在していた。しかし2003年3月場所6日目、武双山は左肩脱臼のケガで全治2か月の診断書が出て途中休場したものの、当時の公傷適用は却下されてしまう。師匠の武蔵川親方が抗議したものの、審判委員らはその理由として「脱臼は古傷の繰り返しによるもので、来場所までに回復して相撲が取れるはず」というものだった。左肩の具合が完全に回復しないまま強行出場となった、翌5月場所は通算2回目の大関角番となったが、千秋楽に8勝7敗と勝ち越し角番を脱した。その後も武双山は2003年9月場所5日目、左ひじの骨折を起こし再び全治2か月の診断書が出て途中休場したが、これも公傷認定はされなかった。翌11月場所も9勝6敗と勝ち越して通算3回目の大関角番を脱出。この事から当時の北の湖理事長は公傷廃止を提案し、結果2003年11月場所限りで「公傷制度」は廃止となった。2004年10月2日の横綱武蔵丸引退相撲での土俵入りでは、武双山が太刀持ちを務めた(露払いは雅山)。それから約1か月後の同年11月16日(11月場所3日目…この場所は初日から3連敗)を最後に、大関の地位で現役を引退。年寄・藤島を襲名し、二所ノ関一門に渡っていた藤島の名跡を出羽海一門に引き戻した。2006年5月場所からは病に倒れた同じ一門の二十山親方(元大関・北天佑。同年6月23日死去)に替わって審判委員を務めた(その後一旦退くが、2010年9月に再任)。2010年9月30日に年寄名跡交換はせずに師匠の武蔵川親方から部屋を継承する形で藤島部屋を創設した。2015年1月29日の理事会を受けて、停年を控えた朝日山親方(元大関・大受)の後任として役員待遇の審判部副部長に抜擢された。2016年1月、役員候補選挙に初出馬し、副理事に当選する。同年3月の職務分掌では審判部副部長に留任すると共に、新たに事業部副部長にも就任し、協会執行部入りした。武双山はこの場所初日から13連勝の貴乃花と対戦した。貴乃花は左差し右上手を引きつけて投げを交えて振るが、一枚廻しなので思うように武双山は崩れず、最終的に武双山は貴乃花を巻き落としで下す。だが貴乃花は武双山の巻き落としに落ちた際に右膝亜脱臼の重傷を負ってしまった。取組後の夜に貴乃花は師匠の二子山(元大関・貴ノ花)から休場勧告を受ける。しかし強行出場した貴乃花は千秋楽結びの一番で武蔵丸と対戦し、まず本割では仕切り中に足を引きずる動作からとても相撲が取れる状態でないと衆目から判断され、その心配通りに武蔵丸の軽い突き落としで立合い直後に敗れる。だが13勝同士で武蔵丸と戦った決定戦では大方の予想を覆し、豪快な上手投げで勝利。この優勝劇は当時の内閣総理大臣である小泉純一郎「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と興奮を露わにして称賛しつつ内閣総理大臣杯を手渡す一幕に大きく印象付けられた。他方で武双山は一部の相撲ファンから「貴乃花が怪我をしたことに武双山のユルフンが関係している」と批判されるようになり、場所直後の読売新聞の記事には「ケガの一因が、武双山の緩く締めたまわしにあった」と明記されていた。武双山に限らずユルフンの力士は当時の土俵上で珍しくなく、ユルフンが戦略として蔓延していることも同じ記事の上で問題になっていた(ただし脚注にあるとおり、武双山の場合は腰痛が原因できつく締められなかった)。当時理事長であった時津風も「正々堂々を是とする相撲道に反する行為」としてたびたび苦言を呈してきた。武蔵丸も自身と同部屋の大関・武双山との取組が原因で貴乃花が重傷を負ったことを負い目に思ったのか件の場所の決定戦で通常考えられない敗北を喫してしまい、これが武蔵丸の評価を下げてしまった。 (カッコ内は勝敗数の中に占める不戦勝・不戦敗の数。太字の白鵬は2016年現在、現役力士)
出典:wikipedia
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