拓跋猗(たくばつ いい、音:、? - 305年)は、鮮卑族の中部拓跋部の大人(たいじん:部族長)。拓跋沙漠汗の長男で、弟には拓跋猗盧,拓跋弗、子には拓跋普根、拓跋賀、拓跋那がいる。『宋書』では「索頭単于猗(いだ、)」と書かれる。昭帝元年(295年)、叔父である拓跋禄官が大人となると、拓跋部を三分割し、拓跋猗は代郡参合陂の北、中部拓跋部を統治した。昭帝3年(297年)、拓跋猗は漠北を渡って西の諸国を攻略した。昭帝7年(301年)、拓跋猗は5年間に及ぶ西略から帰国し、20余国を帰順させてきた。昭帝10年(304年)、匈奴の劉淵が離石で叛き、自ら漢王と号す。并州刺史の司馬騰は拓跋部に援軍を要請した。拓跋猗は10余万騎を率い、拓跋禄官もこれに呼応し、西河郡、上党郡で劉淵の軍を大破させた。昭帝11年(305年)、劉淵は司馬騰を攻め、司馬騰はまた援軍を要請した。拓跋猗は軽騎数千でこれを救い、劉淵の配下の母豚を斬る。劉淵は蒲子に南走。晋は拓跋猗に大単于,紫綬金印を下賜した。この年、拓跋猗は死去した。中部拓跋部は子の拓跋普根が後を継いで統治した。のちに、北魏の道武帝より桓皇帝と追尊される。
出典:wikipedia
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