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摩周丸 (初代)

摩周丸(ましゅうまる)は、かつて日本国有鉄道(国鉄)青函航路に就航していた車載客船である。青函連絡船の復興のため、当時の運輸省鉄道総局がGHQの許可を得て建造した車載客船洞爺丸型4隻の第3船で、同型船には洞爺丸、羊蹄丸、大雪丸があった。1945年(昭和20年)7月14日のアメリカ軍の空襲で、青函連絡船は一時壊滅し、8月15日の終戦時稼働できたのは、第七青函丸 、第八青函丸と、船舶運営会から傭船した樺太丸(旧関釜連絡船初代壱岐丸1,598総トン)の3隻だけであった。しかし、終戦後、青函航路には多くの旅客や貨物が押し寄せたため、 関釜航路の景福丸(3,620.60総トン)、同航路の貨物船壱岐丸(2代)(3,519.48総トン)、稚泊航路の宗谷丸(3,593.16総トン)をはじめ、多くの商船、機帆船、旧陸軍上陸用舟艇などを傭船して、この混乱に対応し、1947年(昭和22年)9月からは、空襲により擱坐していた関釜連絡船昌慶丸 (3,620.60総トン)を浮揚修理して就航させた。また終戦後、博多―釜山間で朝鮮半島から日本への引揚げ、ならびに朝鮮半島への帰還輸送や、樺太からの引揚げ輸送に就いていた関釜連絡船徳寿丸 (3,619.66総トン)も青函航路へ助勤させていた。このような状況下、当時就航中あるいは建造中であった第八青函丸、第十一青函丸、第十二青函丸、石狩丸(初代)に旅客用甲板室を造設して客載車両渡船(デッキハウス船)とし、旅客輸送力増強を図ったが、いずれも「進駐軍専用船」に指定されてしまい、一般の旅客・貨物の利用は禁止されてしまった。また当時の車両渡船は、新造船も含め、全て戦時標準船で劣悪な船質のうえ、十分な補修もされず酷使され続けたことで、故障や事故が頻発し、一向に貨車航送能力も回復しなかった。このことが、北海道に進駐するアメリカ軍自身の物資輸送にも支障をきたすところとなり、1946年(昭和21年)7月、運輸省鉄道総局はGHQから、青函航路用として、車載客船4隻、車両渡船4隻の計8隻の建造許可を取り付けることに成功した。この車載客船4隻が洞爺丸型で、摩周丸はその第3船であった。摩周丸は1946年(昭和21年)12月3日浦賀船渠で起工、1948年(昭和23年)7月31日竣工、同年8月27日に青函航路に就航した。車載客船としての基本構造は、1924年(大正13年)に建造された翔鳳丸型に準じたが、設計期間短縮のため、戦時中博釜航路へ投入予定で設計されたH型戦時標準船石狩丸(初代)の船体線図を一部修整のうえ使用し、二重底に変更するなど、平時仕様で建造された。垂線間長113.2mはH型船と同一で、翔鳳丸型に比べ、全長が約9m延長され118.7mとなり、総トン数も3,400トン級から3,800トン級へと大型化したが、船尾扉の装備はなかった。なお洞爺丸型4隻のうち、3隻は三菱重工神戸造船所で建造されたが、本船のみ浦賀船渠での建造となり、主機械には石川島重工製が採用され、主発電機も550kVA 2台と他の3隻より若干大きいものが装備されたほか、外観では後部操縦室の大きさが、他の3隻よりやや小さく、窓の数も少なかった。旅客定員は新造時899名と、翔鳳丸型と同等であったが、車両甲板両舷中2階の、翔鳳丸型では幅の狭い曝露甲板で、左舷のみ3等旅客に開放されていた下部遊歩甲板を拡幅し、舷側外板で囲い、大型の窓を多数設け、両舷とも3等船室とした。このため車両甲板の船内軌道は、翔鳳丸型のように3線は敷けず、船尾端では1線で、すぐ分岐し、車両甲板の大部分で2線平行となるよう敷設され、積載車両数もワム換算18両と、翔鳳丸型より7両減であった。しかし、1951年(昭和26年)9月施行の規程では、既にワム換算積載車両数19両に改定されていた。なお、姉妹船のうち本船はレール有効長がやや短かった。船内配置は上から操舵室のある航海船橋、その下が端艇甲板で、前方の操舵室直下に高級船員居室と無線通信室があり、中央部には4本の煙突、周囲には10隻の救命艇を備え、船尾にはヒーリングポンプを操作する後部操縦室が配置された。その下が上部遊歩甲板で、車両甲板の天井にあたり、甲板室全周にわたる遊歩廊が設けられ、このうち前方と両側面の船首側約8m以外は側面が開放されていた。遊歩廊内側の甲板室には、前方から1等個室寝台室、1等出入口広間、1 、2等食堂、開放式の2等寝台室、2等出入口広間、2等雑居室が配置されていた。その下が車両甲板両舷中2階の下部遊歩甲板で、左舷には3等出入口、3等食堂、3等椅子席が、右舷には3等椅子席が設置された。更に、車両甲板下の第二甲板には、ボイラー室前方の2区画と機械室後方の1区画に3等雑居室が配置された。洞爺丸事件後の安全対策としては、非常時に救命艇を迅速かつ容易に降下できる重力型ボートダビットへの交換、下部遊歩甲板の角窓の水密丸窓への交換、車両甲板下第二甲板の3等雑居室から上部遊歩甲板への脱出経路の直線化のほか、車両甲板上の石炭積込口を含む開口部の敷居の高さを61cm以上に嵩上げし、車両甲板上に大量の海水が浸入しても、機械室やボイラー室へは直ちにこの海水が流れ込まないようにし、これらの部屋の換気口も閉鎖して電動換気とし、これに伴い、蒸気タービン駆動200kVAの補助発電機1台を機械室に追加設置した。更に1960年(昭和35年)12月には、大雪丸と同じ電動ウインチ式の船尾水密扉を設置し、ボイラーも石炭積込口不要なC重油焚きに改造のうえ5缶に減らし、外舷塗装も白と“とくさ色”(10GY5/4)に変更した。これにより車両格納所の容積も加算され、総トン数は5,796.22トンとなった。1964年(昭和39年)5月10日に高速車載客船津軽丸(2代)、8月12日には 八甲田丸が就航し、本船は、大雪丸(初代)に遅れること約2ヵ月の10月26日に終航した。

出典:wikipedia

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