モビー・グレープ(またはモビー・グレイプ、Moby Grape)は、1960年代後半に活動したアメリカ合衆国のバンド、サイケデリック・ロック・バンド。1966年、カリフォルニア州サンフランシスコにて結成。シングル、オマハ(Omaha)が1967年全米シングルチャート最高88位、のちに有名になる多くのミュージシャンに多大な影響を与えた。メンバーの一人、スキップ・スペンスは1999年に死去したが、他のメンバーは変遷を経て現在も活動を続けている。ギターのジェリー・ミラーは、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において2003年は第73位にランクインしていたが、2011年の改訂版では削除された。初期の「ジェファーソン・エアプレイン」でパーカッションを担当し立場の不満から退団を決めたアレックス・スキップ・スペンス(Alex Skip Spence )は、同じ頃にバンドのマネージメント業務で職務不履行、越権行為と権利乱用で解雇されたマシュー・カッツ()は新規のバンド結成を助言し協力を申し出た。アレックス・スキップ・スペンスは、かつて渡り歩いた西海岸のフォーク・クラブで一緒になった仲間へ呼びかけ、ジェリー・ミラー()、ドン・スティーヴンソン() とピート・ルイス()に、ルイスの友人ボブ・モズレー()が集まった。フォーク畑出身からメンバー全員歌うことが出来、また同時にソングライターという一致があった。1966年11月4日サンフランシスコのカリフォルニア・ホールでデビュー・ステージを踏み、その評判から大手レコード会社から引き合いが相次ぎ、コロンビア・レコード()がアルバム4枚制作発表する条件で契約を獲得、1967年3月にプロデューサーデヴィッド・ロビンソン()のもとでスタジオ入り、6月7日に1stアルバム「モビー・グレープ()」を発表し、モントレー・ポップ・フェスティバル、6月17日夜の部で参加、これによって人気は頂点に達した。しかし、ポスター付の1stアルバム「モビー・グレープ」は同時に5枚のシングル盤を発売、新人としては異例のプレスを招いた発売記念パーティといった宣伝が災いし、大手企業の搾取感に、反戦、反体制の時勢では反感を呼びセールスは振るわなかったさらに表ジャケットに写った「赤く染まる星条旗」、「ドン・スティーヴンソンの右手中指の様子」が問題視され未販売分は回収、ジャケット差し替えで再発売も追い打ちをかけた。しかしイギリスで同時代のバンドザ・ムーブ (バンド)()がカバーしたりセミ・プロ時代のロバート・プラント、ジョン・アンダーソンが取り上げるなど、ミュージシャン達から注目された。また、数年後日本のバンド、はっぴいえんどはこのアルバムから影響を受けたことをメンバーは公言している。1968年4月3日2ndアルバム「ワウ()」発表。初版は「グレープ・ジャム」が付属する2枚組だった。モビー・グレープの特徴は1stアルバム「モビー・グレープ」にみられるよう一過性流行のアレンジのサイケデリックは最小限に留めて、きちんと纏まった一曲を作り上げることを特徴とし幻覚追求で長尺曲の多かった他のバンドとは一線を画していたが、前作のセールス失敗からレーベル側、制作は楽曲アレンジへ介入し時代掛ったサイケデリック風味の大袈裟なアレンジ曲を増やし、突然SPレコードの回転数でプレイを求めるLPレコードという仕様に、更にグループ名が無い奇抜なデザインのアルバム・ジャケットと初回限定ボーナス・トラックスでは先駆なセッション・アルバム「グレープ・ジャム」同封というパッケージに仕上げてしまった。楽曲は「グレープ・ジャム」を省けば前作同様良作が揃っていたにも関わらず、装飾過多、盛り込みは否めず、アレンジの錯誤から統一感欠くものとなった。アルバムの出来全体を歪め、不本意な内容になった根拠には後年の1993年の編集盤CD「ヴィンテージ・モビ・ーグレープ ()」、数曲の初期テイク(The Place and the Timeの未発表バージョンなど )といった原曲の状態、ライナーノーツのボブ・モズレーによる証言がすべてをもの語っている。「グレープ・ジャム」は、アレックス・スキップ・スペンスの提案カントリー・ミュージック中心に据えたものから転じブルース・ロックで統一された。この一環で招聘されたアル・クーパー、マイク・ブルームフィールドはのち「スーパー・セッション」で大成功を修め、アル・クーパーはこの「グレープ・ジャム」で発想を得たと後年語っている。2作目のセールス不振が露見し始めた頃、フィルモア・イーストで公演中滞在していたニューヨークのアルバート・ホテルで、アレックス・スキップ・スペンスが不在のドン・スティーヴンソンを探し、廊下にある消防の突入用斧を振り回しドアを打ち破り徘徊する事件が発生した。LSD濫用による統合失調症と診断され、麻薬法違反で起訴後、病院に収容されてしまった。音楽方針の舵取役アレックス・スキップ・スペンスが不在の4人のまま、4月から11月にかけて収録した「モビー・グレープ'69()」は1969年1月30日に発表、付きまとったレーベルの干渉を排除しバンドの素顔を取り戻しての録音だったが、作品は覇気の無い晩秋のような印象の作品だった。アルバム最後を飾るシーイング(Seeing)は、前作で行ったスペンス中心のラフ・セッション録音に4人のメンバーがコーラスと音を重ねダビングで完成させたがバンドの状況とメンバーの心境をも表していた。一方スペンスは退院後の1968年12月3~12日にかけてコロンビア・レコードのナッシュヴィル・スタジオに入り独りですべての楽器を演奏3chレコーダーでサンプリングのように重ね「オール(Oar) 」を作り上げた。その才能を惜しんだデヴィッド・ロビンソンが急遽ソロ作として5月に発表したがプロモーションは無く、少数の販売に留まった。1969年2月のヨーロッパ公演を終え帰国すると任意で軍属志願したボブ・モズレーが脱退した。スケジュール通り4作目の録音に入る。レーベルから低額な録音予算を説明されナッシュビルに移動し1969年5月27~29日、ボブ・ジョンストン()プロデュースで、地元セッション・ベーシスト、ボブ・ムーア()を迎え終了。1969年7月30日に「トゥルーリー・ファイン・シチズン()」として発売された。ジャケットは録音スタジオ勤務ガードマンの写真を用い、マシュー・カッツと印税契約をめぐる訴訟問題からソングライタークレジットは変名「Tim Dell'Ara」表記という状態だった。同年12月20日のサンフランシスコ、フィルモア・オーディトリアム公演を終えて、とうとうバンドは解散状態になり、ジェリー・ミラーとドン・スティーヴンソンはリズム・デュークスを結成した。1971年、リプリーズ・レコードから突然「20グリニット・クリーク()」が発表された。プライベートな仲介で実現した5人による再結成で、同時にフィルモア・イーストなどで数回公演を行い休止した。その後、顔ぶれは入れ変えつ活動を続けている。アルバム発表は1976年にボブ・モズレー、ジェリー・ミラー、マイケル・ビーン() 、 ジョン・クラヴィオット() の「ファイン・ワイン()」など。健康状態に問題があったアレックス・スキップ・スペンスとボブ・モズレーの休養脱落、ソロ活動の延長を含め現在に至るまで様々な名称、メモリアル・バンドと称したり、ボブ・モズレーがソロでかつての楽曲をサポートを得て公演するなどを繰り返している。混乱続きだった1969年までの活動期間以降も、法廷闘争の渦中にあり再発売はおろか、再評価される機会すら奪われた。マシュー・カッツのサンフランシスコ・サウンド・レーベルでレコード、CDがそれぞれ一度、海外イギリスの再発専門レーベルのエドセル・レーベル()による1986年に1stアルバム「モビー・グレープ()」と編集盤(「Murder in My Heart for the Judge」)は例外、ロックのレコード再発ブーム中、海賊コピー盤で「ワウ」が出回る始末だった。マシュー・カッツによる訴訟権濫用で「モビー・グレープ」名称使用差し止め制限が2006年まで続き、和解したとみられた2007年以降も 再発専門レーベルサンデイズド・レコード()から発売された1stアルバム「モビー・グレープ()」のCDにアートワーク権利侵害で申し立て発売停止にさせるなど、モビー・グレープにまつわる混乱は収束していない。
出典:wikipedia
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