幽玄(ゆうげん)とは、文芸・絵画・芸能・建築等、諸々の芸術領域における日本文化の基層となる理念の一つ。本来は仏教や老荘思想など、中国思想の分野で用いられる漢語であったが、平安時代後期から鎌倉時代前期の代表的歌人であり、千載和歌集を撰集した藤原俊成により、和歌を批評する用語として多く用いられて以来、歌論の中心となる用語となった。同じ歌道の理念である有心(うしん)とともに並び用いられることが多いが、本来は別の意味の言葉である。その後、能楽・禅・連歌・茶道・俳諧など、中世・近世以来の日本の芸術文化に影響を与え続け、今日では一般的用語としても用いられるに至っている。古くは、『古今和歌集』の真名序において「興或は幽玄に入る」として用いられている。『古今和歌集』の撰者の一人である壬生忠岑は、歌論『和歌体十種』の高情体の説明において「詞は凡そ流たりと雖も、義は幽玄に入る、諸歌の上科と為す也」と表現し、高情体を十種の最高位としている。平安時代後期の歌人藤原基俊は、歌合の判詞において「言凡流をへだてて幽玄に入れり。まことに上科とすべし」「詞は古質の体に擬すと雖も、義は幽玄の境に通うに似たり」と残している。基俊に師事した藤原俊成は、歌合の判詞の中で、幽玄を「姿既に幽玄の境に入る」「幽玄にこそ聞え侍れ」「幽玄の体なり」「心幽玄」「風体は幽玄」と批評用語として多用した。また藤原俊成の子で『新古今和歌集』・『百人一首』の撰者である藤原定家は、歌論『毎月抄』の中で和歌を分類した十体の一つとして、幽玄様を挙げている。もう一つの幽玄を確立したといわれる俊恵の弟子の鴨長明は、その著書『無名抄』の中で、幽玄を「詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし」「心にも理深く詞にも艶極まりぬれば、これらの徳は自ら備はるにこそ」と、問答形式の中で定義している。室町時代の歌人正徹は、歌論『正徹物語』の中で、「人の多く幽玄なる事よといふを聞けば、ただ余情の体にて、更に幽玄には侍らず。或は物哀体などを幽玄と申す也。余情の体と幽玄体とは遙か別のもの也。皆一に心得たる也。」と記している。南北朝時代の連歌の大成者である二条良基はその著書『九州問答』の中で「所詮連歌と云物は、幽玄の境に入ての上の事也。」と述べており、『十問最秘抄』の中では、心の持ち様を意味する用法としての「意地」の説明の中で、「正しくゆがまず幽玄なる事」の普遍的な必要性を説いている。室町時代中期の天台宗の僧であり、連歌作者として知られる心敬は、その著書『心敬僧都庭訓』の中で「幽玄というものは心にありて詞にいはれぬものなり」と述べている。また歌論『ささめごと』において、一般人が単に「姿の優ばみたること」を幽玄と心得るのに対し、「古人の幽玄体と取りおけるは、心を最用とせしにや」として美意識ともいうべき「心の艶」が条件として伴うものとしている。また連歌においては、感情・面影・余情を旨として「いかにも言ひ残し理なき所に幽玄・哀れはあるべしとなり」と記している。室町時代後期の連歌師宗祇は、著書『吾妻問答』の中で「長高く幽玄有心なる姿」、『長六文』の中で「幽玄にたけたかく」という表現を用いており、宗祇の連歌における理想を示すものと考えられている。
出典:wikipedia
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