クウェート侵攻(クウェートしんこう、)は、1990年に発生した、イラクがクウェートを侵攻した事件である。この侵攻は後に湾岸戦争に発展した。イラク・クウェート戦争(イラク・クウェートせんそう、)とも言われる。イラン・イラク戦争時、クウェートはイラクを積極的に支援し、イラク南部の港湾都市バスラが戦闘により被害を受けたときクウェート港を開放し、また約400億ドルの資金を提供してきた。終戦後、イラクはクウェートへの負債の返済するために、石油の減産による石油価格の上昇を目的に、石油輸出国機構(OPEC)を通じて石油の減産を求めた。しかし、OPECはイラクの求めに応じず、クウェートとサウジアラビアは石油の増産を行っていた。クウェート・サウジアラビアの石油増産政策に対して、イラクは増産中止と石油価格の値上げを訴えるも拒否された。そのためイラクはクウェート国境付近に軍隊を動員して威嚇したが、アラブ諸国は脅威として捉えずに単なる脅しと見て、懐柔案による解決を考えていた。欧米諸国も同様の考えを持っており、最悪の場合でもイラクが領有権を主張していたワルバ、ブービヤーン両島に軍を進めるだけの局地的な紛争に留まるであろうと判断していた。実際、イラク側の当初の作戦計画でも、クウェート北部への限定攻撃とされていたが、侵攻前々日の7月31日に急遽計画が変更され、全面侵攻とされたという経緯がある。このために、イラク軍の側も、十分に準備して侵攻を行なうことができず、とくに兵站物資の配布は極めて不十分な状態であった。1990年8月2日午前2時、共和国防衛隊(RG)はクウェート国境を越えて侵攻を開始した。このとき、十分な弾薬・燃料を携行していたのは、RGの戦車2個中隊のみで、他の部隊が有する兵站物資は必要最低限のみであった。しかしクウェート軍は、RGの50分の1の戦力しかなかった上に、奇襲を受けて混乱しており、わずか数時間のうちに制圧され、軍の一部はサウジアラビアやカタールに撤退した。 イラクの奇襲作戦に混乱したクウェート軍ではあったが、すぐに軍勢を立て直し、アリー・サーリム空軍基地を死守するなど、各所で奮戦を見せたが、力の差は歴然としており、20時間でクウェート軍の抵抗は粉砕された。クウェート市内に侵入したRGはダスマン宮殿を攻撃した。首長のジャービル3世ら首長一族の大半は、軍首脳の助言に従い事前に宮殿を出てサウジアラビアに向けて出発した後だった。しかしジャービル3世の異父弟で、クウェート・オリンピック委員会委員長であるシェイク・ファハド・アル=サバーハは国外からクウェートに帰国したばかりで、イラクの軍事侵攻を知らされておらず、宮殿に戻ると、RGの一群と遭遇した。そして、宮殿護衛隊と共に銃撃戦を行った末、シェイク・ファハドは射殺された。また、共和国防衛隊により占領されたクウェート国際空港に着陸したブリティッシュ・エアウェイズ149便の乗員乗客がイラクの首都バグダードに連行された。(ブリティッシュエアウェイズ149便乗員拉致事件)当初、フセイン政権はクウェートのイラク領土編入では無く、同国の属国化を狙って、クウェート国内の対イラク協力者であるアラー・フセイン・アリー陸軍大佐を首相とする「クウェート暫定革命政府」を成立させた。しかし、閣僚の大半がイラク人であった。1990年8月4日、同政府は「クウェート共和国」の樹立を宣言した。しかし、国際社会がこれを承認しないことが分かるや、8月8日、イラク革命指導評議会は、クウェートの併合を決定。クウェートをバスラ県の一部と、新たに設置したイラク19番目の県「」とした。
出典:wikipedia
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